生きるに意味などない120

日本に西洋のような体系的な哲学や思想が生まれなかったひとつの理由は、日本では「ものを考えること」が、世界の認識へ向かうのではなく、多くの場合、人が生きる上でのある境地を目指すものだったからです。仏教の教えや禅もそうであり、かなり学問的な儒学にもその傾向があり、俳句や和歌もその方向を向きました。
佐伯啓思

それは、風土により、決定的だった。
人が生きる境地・・・である。

世界の認識などは、必要なかったのである。
世界は、自然であり、その自然の中で、生かされて、生きていると、考えたのである。

西洋人は、その元を辿れば、バイキングに行き着く。
とても、野蛮で、実に、恐ろしい人種である。

ユダヤ・キリスト教があれば、こそ、人間らしく、生きられた。
それは、強制の教えだからである。

強制させられるから、少しは、マシな人間性を、保てたと、私は言う。

四方を海に囲まれた、日本という、土地柄は、外敵の侵入がなかった。それが、また、幸いしたのである。

ただこの境地は決して唯我独尊的なものでもなければ、自閉的で排他的なものでもありません。むしろ、何か妙に晴れやかで突き抜けた感覚を伴うものなのです。「無」などというと、世をはかなんだ諦念というイメージがついてきますが、西田のいう「無」は決してそういうものではないのです。もっと抽象的でしかも絶対的なもので、いわばすべての根源にあるもので、すべてを包摂するようなものです。
佐伯

自閉的で、排他的ではない。
ユダヤ・キリスト教の、排他的な状態を見れば、良く解る。

唯一絶対の神を頂けば、当然、そのようになる。
独善的で、排他的である。
また、寛容でも、ない。

いわばすべての人間のいかなる所業をも、またいかなる悪をもそのままで受け止める広大無辺な境地といったものをいっているのでしょう。もちろん、そんなことはわれわれにはできません。だからこそこの「無」は絶対であり、いわば絶対的救済という宗教的意味をもってくるのです。
佐伯

宗教という、明確なものがなくても、生きられる、日本人である。
それは、そのまま、伝統を受け継いでいると、身に着くものである。

更に、そこには、強制は、無い。

しかしまた、それは、われわれの具体的な生を離れてあるものでもない。何か、彼岸に鎮座する絶対者のようなものではなく、われわれの生に密着したものなのです。「無」は日常のわれわれのあらゆる行動や思考の底に常に横たわっている。だから、表面的な現象や、それとかかわっている「私」という意識を消し去れば、その底に常に「無」というものが感受されるのです。もっとも、日常のなかで「私」や「われ」という意識を取り除くのはたいへんなことなのですが。
佐伯

西洋人とは、全く違う、感覚なのである。

常に、ある現象の、底に、無、というものが在る。
それは、あはれ、である。

無、と言う言葉は、そのまま、あはれ、と同じ言葉になる。

もの、は、あはれ、である。
もののあはれ、という、心象風景が、日本人の精神を形作る。

ありとあらゆる、感情が、あはれ、となり、流れる。
だから、日本人は、喜怒哀楽も、水に流して、生きて行く。

原爆投下された、唯一の国、日本では、アメリカを怨むことなく、水流したのである。
未だに、アメリカは、謝罪しないが・・・
日本人は、もうそれは、許している。

更に、各都市への、空爆も、国際法違反であるが、日本人は、今は、誰も言わないのである。

それは、不思議なことではない。
それが、日本人なのである。

敗戦後の、日本人は、昨日のことを忘れた。
そして、敗戦した後に、また、生きて来た。

その状態を受け入れ、淡々と生きるという姿勢は、日本人ならではの、精神である。

勿論、それに対する、批判、批難があるが・・・
それでも、終わったことなのである。

そして、追悼慰霊をする。

戦争という、非常事態だった・・・
諦めるしかない。

その、諦めは、明らかに、見る行為である。
多くの人が、亡くなった。
とても、辛い。
悲しい。

だが、もののあはれ、無、という、根底があるから、生きられるのである。

それが、運命ならば、受け入れるしかないのである。

そして、そこに、日本人の、強さがある。
実に、寛容である。
慈悲深いのである。

この、慈悲も、あはれ、と同じである。

月をこそ 眺めなれしか 星の夜の 深きあはれを 今宵知りぬる
建礼門院右京太夫

今までは、月を眺めてはいたが、ああ何という事か、今宵の星空は、実に、深い、あはれ、を思わせる。

こうして、日本人は、生き続けてきた。