神仏は妄想である523

さてさて、大乗仏典のような、ファンタジーに対して・・・
どのように、捉えるべきか。

理性的に考えると、おとぎ話である。
ところが、宗教家というものは、何とでも言う。

例えば、以前も紹介したが・・・
南無阿弥陀仏、の著を書いた、柳宗悦の文には、
阿弥陀仏の物語とても同じく創作で、歴史的な事実ではなく、かかる空想を元に宗教を立てることに、懐疑を抱く人も出よう。・・・
たとえ外面的な歴史としては架空と言われても、内面的な法の歴史としては、これより真実な説法はないともいえよう。・・・
法蔵菩薩の説話は、歴史的な人物より、もっと真実なものを示そうとするにある・・・

という、如くに言う。

つまり、法蔵菩薩が、歴史的に実在したかどうかというのは、重要ではない。重要なのは、その説話に示された、内容であり、そこに示された、仏法なのである、ということ。

嘘でもいいから、信じれば、いいのである。

昔なら、通用したが・・・
現代では、無理な話である。

それでは、基督教の場合は、どうか・・・
この場合は、基督教の使う、信仰という言葉から、解釈すると、信じて、仰ぐのである。

仏教の、信心とは違う。

ユダヤ教、基督教は、信仰の対象の確実性が、重要視される。
例えば、ユダヤ教では、モーゼが歴史的実在でも、架空の人物でも、いいということにはならない。
基督教も、イエスが、架空の存在であるとは、決して言わない。

歴史的事実ではないものを、信じることは、彼らには出来ないのである。

それは、聖書全般に言えることである。

もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪のなかにいるのです。
パウロ

復活が、歴史的事実でなければ、キリストへの信仰は、虚しく、意味の無いものだと言う。

それは、勿論、ユダヤ人基督教の景教でも、同じである。

仏教は、そこまでは、影響を受けなかった様子である。

基督教初代教会の、信者たちは、イエスの復活を宣べ伝えることに、命を賭けた。そして、ローマの円形競技場で、ライオンにかみ殺された。

イエスの十二の弟子たちは、皆、殉教の死を遂げた。
インドに出掛けた、トマスや、バルトロマイも、命を懸けて、イエスの復活を宣べ伝えたのである。

基督教は、信仰の対象の歴史的真実性を不問に付すという、考え方はない。

そこに示された思想が、どんなに素晴らしくても、事実ではないならば、信仰する必要はないのである。

つまり、ユダヤ人も、基督教徒も、信仰の対象の確実性というものは、信じる心以上に重要だと、考える。


では、念仏宗の人は、信じる心、というものを、重要視する。
浄土宗の開祖、法然は、
私が習い集めた数々の知恵や知識は、往生のために何の役にも立つものではない
と、言った。

そして、わが身を、
一文不知の愚純の身
と、呼ぶ。

更に、その弟子、親鸞も、人は自分自身が罪悪の塊で、迷える凡夫であると認めることが、大切なのだと、言う。

信心は、そこから、スタートするのである。

勿論、ユダヤ教、基督教も、それに関しては、一緒である。

愚かで、罪深い自分を認めることから、信仰が始まる。

イエスの弟子、ペテロも、
主よ。私のようなものから離れてください。私は罪深い人間ですから
ルカ福音書

兎に角、我が身が、罪人であり、愚かな凡夫であるから、こそ、救われると考える。
それは、共に、同じといえる。

更に、自力、他力の別を越えて、信心する・・・という、狂いにまで至る。

法然は、念仏を唱えることで、救われるとした。
親鸞になると、念仏を唱えて信心することも、実は、自分の行ではなく、阿弥陀仏から賜ったものであると、なる。

そして、一遍に至っては、人が仏に念仏するのではない。また、仏が人に、念仏させるのでもない。
仏と人が、不二になり、念仏が自ら、念仏するとなる。

仏と人は、二つであれながら、もはや二つではなく、相通じて、一つの念仏となるという、考えである。

本当に、呆れるほどに、考え付いたものである。

ここで、私は言う。
宗教の、根本的な姿は、実は、迷いであるということ。
蒙昧なのである。

実は、救い、救われるという、迷いに陥るのが、宗教の根本なのである。
つまり、信仰とは、迷いなのである。

揺るぎない信仰というものがあれば、それは、単なる頑固である。
融通の利かない、堅固な精神と、心になり、そこに、もはや、救いなどあるものでない。

話は、まだまだ、続く。