神仏は妄想である525

ただ今は、東方基督教と、ユダヤ人初期キリスト教である、景教と、仏教、特に、大乗仏教との、比較をしている。

その訳は、大乗仏典に、基督教の影響を見ているということである。
特に、法華経の中に入り込んだ、基督教の考え方である。

もう少し、掘り下げてみる。

仏教は、人が仏になるための、宗教である。
修行して、煩悩を断ち、仏になる。

基督教は、キリストの贖いによって、罪と滅びから救われ、神の子となるという、教えである。

これは、対立する考え方である。
宗教の帰一するところは、同じではない。

更に、仏教では、最初のシャカ仏陀の教えは、自力であった。
だが、大乗に入り、他力仏教が出来る。

キリスト教は、他力になる。
イエスの言葉に、あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選んだ、という言葉がある通り、賜りたる信仰である。

勿論、親鸞なども、賜りたる信仰を言う。
それは、聖書に影響を受けたものである。
親鸞は、マタイ福音書を読んでいる。

自力仏教は、この世は、あらゆるものが移り変わるもので、実体のない空である。それを悟り、すべてのものに対する、執着を捨てて、欲望を断ち切れば、つまり、解脱して、涅槃の境地に入り、仏となる、という。

そこで、修行者は、出家して、家庭を離れ、妻子、親兄弟との生活を捨てる。更に、一切の性生活を断ち、生産活動、金銭を扱う生活から、離れる。

ということは、日本の仏教は、まず、この初期の仏教ではないということが解る。
現在の、僧侶たちは、甚だしくも、家庭を持ち、更には、金銭を得る活動をしている。
挙句の果てには、子供を次の寺の、跡取りとして、育てる。

全く、シャカ仏陀の仏教ではない。

更には、仏教系の、新興宗教は、全く、大乗仏教というものからも、離れている。
それには、呆れるばかりである。

大乗仏教になってから、膨大な年月の修行期間が、設定された。
もう、誰も、仏になどなれないような、膨大な時間である。

それを説明するのは、省く。
エッセイの主旨ではないから。

インド人の妄想の、凄さであると、言う。

そこで、自力仏教として、七世紀頃に、インドで生まれた、密教について書く。
日本には、空海によって、九世紀頃に、伝えられたもの。

それが、最大の妄想である、即身成仏である。
ここ、ここに至ると、その妄想も、堂に入る。

大日如来という、絶対仏がいる。
勿論、それも、基督教の影響からである。

この仏は、真理そのもので、雄弁に人々に、仏法を説いているとされる。
その説法は、宇宙語でなされていて、普通の人には、解らない。
だから、秘密仏教、密教と呼ばれる。

大日如来の説法を理解するためには、その宇宙語を学び、心を研ぎ澄ませて、聴く必要がある。

その存在は、実在者とされていて、まさに、基督教の、絶対神と同じである。

無神論であった仏教が、密教においては、有神論に変化したのである。
呆れる。

仏教に教えが、節操なく、無茶苦茶になったのは、こういうふうに、生成発展したという、驚きである。

密教では、我が身の、身、口、意を通じて、大日如来に合一することである。

そこで、修行は、大日如来と同じ指の組み合わせで、示される、印、を結び、大日如来と同じ、真言を口で唱え、心を、大日如来と同じ悟りの境地に置くという。

そして、この身のままで、成仏するという。
実に、呆れた、妄想である。

心理学でいう、暗示効果である。

つまり、無神論では、説明がつかないので、有神論を取り入れたという訳である。
丁度、密教が成立した頃、景教が、東アジアに入って来た。

その教えは、実は、基督教の神秘主義と同じである。
だが、結局、神秘主義は、カトリック、キリスト教では、異端として、退けられる。

それは、人は神に近づくことは出来るが、神と人では、区別があり、神と合一するなどは、あり得ないという、教義のせいである。

神と、同一化するなどとは、神に対する、不敬以外の何物でもない。

イエスが、ユダヤ人から迫害されたのは、神を我が父であり、自分が神の子であると、表明したからである。

人間が、神性を持つことは、絶対にないという、考え方である。

時に、クリスチャンには、霊感があるなど言い、神の意志を受けたという、とほけた人がいるが、妄想以外の何物でもない。

キリスト教に、霊性なと皆無である。

もし、霊性があるとしたら・・・
魔人の印である。

何せ、その神が、魔の神である。

実に、神仏は妄想である、のだ。