日々の言い分238

渡部昇一『魂は、あるか? 「死ぬこと」についての考察』を読んだ。出版の半年前に86歳で逝去した筆者はキリスト教徒である。人間の存在を問うとき、「魂の存在」「死後の世界」「宗教」という三つの原点についての問いは人間の存在の根幹に関わるもので、切り離すことはできない。
著者は自らの経験と、パスカルやウォレス、アレクシス・カレルなど古今の偉人の生き方や言葉から、また自身の言語学者としての見地から、数十年の思索を積み重ね、その問いに対する答えとして「魂はある」「死後の世界は存在する」「信仰は弱い人間の心の支えになる」を導き出し、それに救われたという。
神は、あるいは死後の世界は、「あるのかないのか」選ばなければならないのなら、どちらのほうが私たちにとって利益が多いかを考えてみよう、とパスカルはいう。「神はない」に賭けて死んでみて、神も死後の世界もないとしたらそれだけの話だが、死んでみたら神も死後の世界もあったとしたらどうなる。
それに対し、「神がある」に賭けて勝負に勝ったらまるもうけだ。負けたとしても何の損はしない。ならば、ためらわずにあるほうに賭ければいい。魂の存在や死後の世界を信じるかどうかも同じだ。というパスカルの賭の精神を知ったとき、目から鱗が落ちる思いで、悩んでいた自分にあきれた渡部先生だった。
どちらに賭けようが生きている間はリスクはないし、失敗もない。ならばどうして後者に賭けないのか、とパスカルは問うている。問題なのは、死後の世界や神や霊魂の存在を否定し、好き放題な生き方をしていて、死んだらあったという場合だ。とりかえしのつかないことになる。ならないとは証明できない。


上記の書き込みを読んで・・・

私は、当然、霊は、存在するのである。

何故か・・・
霊的存在を感じるからである。
だから、私は、慰霊師を名乗る。

戦没者の追悼慰霊を始めて、12年経る。

激戦地に出掛けて、慰霊の儀を執り行う。
当然、霊位を意識する。

ただし、心霊現象は、ごくわずかである。
一切ないということは、ない。

ただ、上記の書き込みで、人間は弱いから、信仰によって、強くなるというのは、人それぞれである。

私は、宗教に対して、実に懐疑的である。

宗教をもち出さなくても、日本の場合は、伝統の道がある。

私の、慰霊の行為は、伝統の所作である。

つまり、祝詞を捧げる。
奏上するという、言い方が正しいが、私の場合は、献上するのである。

それは、祝詞という言葉、それは、言霊であるから、それ自体に、力がある。
日本語は、言霊といえる、特別な波動がある。

つまり、清音である。
濁音は、使わない。

ときには、仏典も利用することが、ある。
それは、その時々で、感じる行為をするからである。

しかし、仏典は、濁音が多く、私も、あまり進まないが・・・
霊位が、主体であるから、時には、使うのである。

さて、霊魂の存在の有無である。

私は、そのための、感受性を生まれつき持つので、存在の有無というより、当然であると、考えている。

それを、信じる、信じないとの、議論には、関わらない。

死ねば、解ることである。

勿論、神、霊が存在すると、考えた方が、特であるという、先人たちの言葉があるが、賭け事ではない。

何も存在しないと、死んで、気づいても、いいではないか。
仏陀は、人間は、すべて自業自得により、成ると言う。

それを、私も、お勧めする。
すべては、私の行為が、問題である。

因果というものが、存在する。
であれば、当然、霊も、神なる存在もある。

だが、神なる存在も、霊である。

その霊の、格式によるだけである。

自ら、神として、称する霊は、自惚れているだけであろう。

聖書の神という存在は、自らを神と称する。
それだけの、霊なのである。

格式の高い霊は、何も言わずとも、格式が高いのである。

そして、その格式の高い霊位が、こちらの願いを聞き入れて、私の慰霊の行為などに、手を差し伸べる。

私の祈りなど、無力である。
すべては、格式の高い霊位の力により、慰霊の儀が成り立つ。

宗教は、信じるものではない。
疑うものである。

そして、少しばかり知ることは、学ぶことと、同じである。
その程度に、考えているとよい。

つまり、霊界の存在だけを、意識していれば、事足りるのである。