日々の言い分247

英語は、疑いもなく国際語だ。日本の外へ一歩でも出ると、もう英語圏。だが、英語を学ぶために日本語を犠牲にしてはいけない。母国語を学び、さらに英語を習得するから英語力が特別な「力」となる。語学力は他国の文化の扉を開くので、文化力でもある。

日本語を国際語にするためには、どうすればよいのかとの構想がどこからも出てこない。

日本の巨額なODA・援助金(年間1兆3000億円)を駆使して、世界中に学校を建て、日本人教師を送り込み、授業料タダで日本文化と日本語を広めてはどうだろうか。この学校で、世界中の優秀な人材を選別できる。

世界の秀才を日本に招待し、日本経済と文化の成長に貢献してもらおう。



上記は、西俊夫教授の書き込み。


まず、日本語、国語の教育が、一番である。

母語が出来ないで、どうして、英語が出来るのかと、考えないのである。


母語が不案内では、英語も、マシなものにならない。

当然である。


言葉は精神、である。


その言葉の世界が、まず、母語である。

英語は、それからの話。


そして、上記の書き込みのように、世界に日本語を広めることだ。

つまり、日本語を広めることにより、日本を理解する。


言葉には、それほどの力がある。

特に、日本語は、そうである。


日本語を学べば、日本が解る。

それほどに、日本語は、豊かな世界なのである。


その大元は、大和言葉である。

大和言葉から、日本語が成り立つ。


だから、日本人でも、大和言葉を日本語を通して、学ぶことで、日本の精神が出来上がるのである。


英語を公用語にした国を見れば、英語の力が解る。

例えば、フィリピンである。

それは、海外に出稼ぎに行くために、必要となった。


そして、フィリピンは、自国の文化を、カトリックに明け渡した。

ビサヤ諸島に行かなければ、フィリピンの伝統的、文化の様が、理解出来ない。それも、もう微かな物である。


更に、日本にいて、英語が必要ではない。

英語が出来なくても、日本では、生きて行かれる。


言葉は精神であるから、日本で日本語が使えるというのは、僥倖である。


日本語にある、たゆたい、という、心境などは、英語では、あらわせない。

更に、大和言葉の多くは、英語に出来ないのである。


英語が母語の人が、日本に帰化している。

その訳は、日本語の表現の豊かさである。


更に、日本語では、多くを語らなくてもいい。

和歌、俳句の世界があるように、日本語は、そのシラブルの少なさでも、無限大の表現が、可能である。


これほどに、豊な世界を持つ、日本語、大和言葉を、徹底して身に付けることが、どれほど、人生を豊かにするか、計り知れない。


そして、日本語を学ぶこと、身に付けることは、とても、難しいのである。


だが、身に付けることによって、日本の心象風景である、もののあはれ、を知ることができるのは、僥倖である。


対立概念を駆使して、表現する必要がない。


つまり、野蛮ではないということだ。

英語圏の人々は、自然に、野蛮さを、身に付ける。

それは、言葉によるものであり、如何ともしがたい。


言葉で、語り尽くすという、行為は、すでに、時代遅れなのである。


それは、欧米の思想、哲学を見れば、一目瞭然である。


語り尽くして、そして、虚無になる。

だが、日本語は、虚無をすでに、超えている。


虚無を、通り越している、言葉である。


ニヒリズムを怖れる必要のない、言葉が、日本語である。


それは、言葉の概念が、延々と続くと、考えてよい。

どこにも、決定するものがない。


つまり、神という、唯一超越した存在が無いのである。

だから、恐れるものがない。


別エッセイ、生きるに意味などない、を参照ください。