国を愛して何が悪い199

平家一門の栄華とは、つまり武士が「王朝」に変装してみせた栄華といってよい。それほどまでに魅惑されるものがあったのだ。平家の栄華のなかに、王朝の夕映えの悲しく息づいていることを、平家物語の作者は見逃さなかった。

亀井


作者の中では、藤原芸術と院政芸術の間に、微妙に、たゆたふ心、というものを、持っていたと言える。

それは、源氏物語から続く、伝統の心である。


日本の表現者は、その伝統ゆえに、一に共通していると、私は言う。


たゆたふ心、もののあはれ、という、心象風景である。


ただし、その表現は、女房文学にあるような、連綿として、どこまでも続く、たゆたふ心、というものを、切断してしまった。

それは、内乱によるものである。


源氏物語には、そのような、戦争、紛争の類は、一切ない。


それが、ひらがなの連綿体が失われ、和漢混載文が、不可欠になった、理由である。


さて、平家物語の内容にまで、手は出さないが・・・

当時の、激動の時代を俯瞰すると、狂気にかられた人々の群れがある。


物語に即して言えば、清盛、俊寛、西光、文覚なとである。

そして、物語は、それらを上回る、大怪物を描く。


後白河法皇である。

源頼朝をして、大天狗と言わしめた、人物である。


物語は、「後白河法皇物語」といったもうひとつの物語を、影のように伴っていることは確かである。

亀井


この、亀井による、平家物語からの、分析を要約して、紹介することにする。


法皇が、後白河天皇として登場するのは、久寿二年、1155年である。

翌年に、保元の乱が起こる。

宮廷貴族の権力争いである。


天皇はこの時、兄である、崇徳上皇を敵として、戦う。

天皇側には、源義朝と平清盛が従い、上皇側には、源為義と平忠正が従う。


これは、肉親血族間の、凄惨な闘争である。

上皇側が敗戦の結果、義朝は、父の為義をはじめ、その幼い子らを、皆殺しにした。


死罪の復活と共に、同時に大きな衝撃を与えたことは、保元物語で、詳しく語られている。


父殺しの汚名を、義朝は後々まで蒙るのだが、この残酷な処置を決定したのは、天皇側である。

続いて、崇徳上皇は、讃岐に流される。


天皇が流刑に処されるとは、それまでの歴史上、稀有なことである。


さて、次に、保元、平治の乱以後、平家は全盛期に入る。

だが、これを転覆しようとして、発覚したのが、鹿ケ谷事件である。


大納言成親、成経、康頼、俊寛、西光等が、斬られ、また流された。

このとき院政を摂っていたのは、後白河法皇である。


清盛は、それを明確に知っていた。


保元、平治の乱以来、忠誠を尽くしてきた清盛としては、心外のことだったはずである。


第三に、源氏の台頭に当たり、文覚は伊豆の頼朝と、法皇の間の連絡を謀り、法皇の側近、右兵衛督光能卿を通して、平家討伐の、院宣を受けた。


このことは平家物語の虚構もあろうが、極秘のうちに事を運んだと思われる。

亀井


つまり、法皇を中心とした、光能のような、隠れた側近の謀略があった。


さて、第四に、諸国の源氏が一斉に蜂起して、木曽義仲は、真っ先に入京し、ここから、平家一門の、都落ちが始まった。


法皇は、義仲と一旦は、結ぶが、その横暴狼藉が募ると、密かに頼朝に命じて、木曾追討の命令を下した。


その際の、総指揮は、範頼と義経だが、ここに、注目すべき、話がある。

義仲が死ぬと、その四天王の一人、樋口次郎が、降伏人として、義経軍に降りた時である。


範頼と義経は、助命を乞うが、それを許さず、樋口を斬らせたのは、法皇である。


そして、第五は、義仲討死後、法皇は平家討伐に功のあった、義経と結ぶとともに、直ちに、鎌倉の頼朝に対抗させようとしたことである。


やがて、頼朝と、義経の確執が深まって行く。

ついに、頼朝の代官として、北条四郎時政が入京し、義経追討の許しを請うと、法皇は、ただちに、院宣を下して、追討を許したのである。


恐るべき、法皇である。


つまり、それは、

平家一門と源氏一門、義仲と平家、頼朝と義仲、義経と頼朝といった風に、それぞれの勢力を対立抗争させたことが右の記述からわかる。そこには荘園の争奪、恩賞とか立身でもつれた源氏の内部抗争もあり、また地方武士の戦況に応じての離反動揺も原因だが、変転してゆくあいだに在って、院政勢力を巧妙に維持しようとしたことは明白である。平家も源氏の諸将も、一度は法皇にむすびつき、ある場合は信頼されていたようにもみえるが、こうした変転のあとをみると、法皇は武士なるものを根本では信じていなかったとしか思われない。事によると誰も信じていなかったかもしれない。

亀井 現代文は、私


保元の乱以来、最も、法皇と親密だったのは、清盛以下、平家一門である。

だが、源氏によって、滅ぼされてゆく過程を、法皇は、どのような眼で見ていたのか・・・


それは、鹿の谷以来の、陰謀の成就である。


そして、次の勢力は、源氏である。

院政の前途の不安・・・


頼朝は、法皇を、日本国第一の大天狗、と証したが、まさに、その通りである。


ゆえに、頼朝は、その辣腕を見て、院政力、寺社勢力の錯綜した京都を避けて、鎌倉に踏みとどまったのである。