国を愛して何が悪い201

さて、平家物語について、書いてきた。

そして、その物語は、後の日本人の精神に、大きな影響を与えた。


平家の場合は一族が滅びたと言っても、彼らは壇の浦の最後の日まで団結し、勇敢に抗戦した。どたん場になって肉親が離反したり殺し合うようなことはなかった。

亀井勝一郎


ところが、源氏一門の興亡を見ると、実に陰惨である。

保元の乱で、父の為義を処刑せざるをえなかった頼朝から、鎌倉幕府になり、矢張り、一族の陰謀により、暗殺された実朝に至るまで、源氏の家系には、何か、異様な血が流れているように見える。


この間には、義仲、義経、範頼、頼家が、殺されている。


平家物語に対してもし源氏物語がありえたとするならば、それは平家への勝利の物語というよりは、血で血を洗う同族殺しあいの物語となるであろう。

亀井


その最初の表れが、義頼の悲劇である。

保元の乱は、肉親間の権力争いであり、崇徳上皇と、後白河天皇と、二派に別れて戦った後、天皇側の義頼は、敗れた上皇側の父為朝を殺し、更に、異母兄弟の、幼い兄弟まで惨殺した。


保元物語の作者は、残酷な場面を、仔細に描いている。

が、義朝の真意に発したことではなかった。

義頼は最後まで、躊躇ったのである。


父親を殺すという、悲劇である。


父の為義はいよいよ自分の死を知ったとき、「あはれ親の子を思ふやうに子は親をおもはざりけるよ」と歎きながらも、最後は五逆罪におちいるであろう子の義朝のために、「助けさせ給へ」と念仏して死ぬ。保元物語の作者の心痛の生んだ虚構かもしれないが、内乱の悲劇に対し、作者として委曲をつくした態度というべきであろう。

亀井


そして、その子である、頼朝である。

父が、父親を殺すさまを見たのである。


平治の乱では、今度は義朝が敗れて暗殺され、頼朝は伊豆に流される。

十四歳の、少年は、親兄弟も、いざとなれば、信じるに足りないという、牢固たる信念をすでに、抱いたと思われる。


本来は、頼朝も、源氏の正系として、当然殺されるはずだった。

池の禅尼の嘆願で、清盛がやっと、流刑に留めたのである。


生きると言うことは、生き残ることだ。

亀井


当時は、そののような時代だったのである。


当時としてこういう場合、仏教に心を傾けるのは当然である。出家の動機は完全にそろっているのだ。事実頼朝は信仰の深い人であったが、後に武将として政治家として内乱に臨まなければならなかったとき、父の悲劇は、彼の胸底で嵐と化した。どういう理由があったにしても、彼は同胞の義経と範頼を殺さざるをえない悲劇の人となったのである。

亀井


ここで、深読みすれば、源氏の直面したのは、平家であるが、実は、その背後にある、院政というものが、敵だったのではないかと、亀井は、言う。


義仲を攻め義経を追放したことも、結局は院政との結合によって彼らが一大勢力となることを恐れたからである。

亀井


つまり、頼朝は、最大の政敵である、後白河法皇を、打ち倒すことが出来なかったのである。


平家を倒してから、次に滅したのは、肉親だった。


征夷大将軍になり、わずか七年で、死ぬ。

やがて、子の頼家と実朝は、自分の妻の政子をもふくむ、北条一族により、殺された。


古代から、同族殺しが続いていた。

平安期になっても、そのようであり、鎌倉時代になってからは、源氏、北条相互の同族殺戮が、繰り返された。


政治経済上の理由をもって説明することはむろん出来る。しかし外部からの襲来する異民族との戦争体験を全くもたない島国の内部では、権力争いは必要以上に内攻し、陰惨な形相を呈するのかもしれない。権勢力や物欲は同族に対して激しくもえあがり、肉親であるために一層憎悪や嫉妬心を抱く場合もあるだうろ。歴史のこういう面をみているとひどく病的な印象をうける。

亀井


そして、

人間は神仏を信仰しながら人間を殺すのだ。

亀井

と、なる。


古代から、鎌倉に至るまで・・・

そのようである。


保元、平治、平家物語読んで誰でも気づくことは、生死の危機に仏名を唱えたり、仏の教えを思い出さないものはないということだ。そういう場面だけをとりあげたら、軍記ものは念仏称名の声と涙にみたされるであろうし、それはまた流血の悲惨とつねに表裏しているのである。

亀井


さて、頼朝の死後、長子の頼家が後を継いだが、母、政子はまもなく、頼家の訴訟裁定権を停止した。

そして、元老による、一種の合議制を敷いたが、彼らの内部抗争が始まると共に、北条時政、義時、政子等を中心とする、陰謀と暗殺が次第に、激化する。


頼朝の有力な御家人たちが、一人一人と、斃れて行くのである。


合議制が敷かれたのは、正治元年、1199年で、御家人たちに勢力を持っていた、最後の人間、和田義盛を滅したのは、建保元年、1213年であるから、およそ、14年間に、これだけの犠牲を出して、北条中心の執権政治が、漸く、固まっていった。


累々たる、犠牲者である。


その有様を見ていたのは、武家たち、そして、鎌倉の庶民である。


人間が存在する限り、権力争いは、続く。

勿論、今現在も、そのようである。


そして、人間が存在する限り、戦争が続くのである。

これが、人間の人間たる、無明である。