4年ぶりのほほ笑み 10

「タイ政治は、警察と軍の権力争い」と、虎のタトゥーの女性は言う。


 クーデターで地位を追われたタクシン元首相は警察出身。その妹による、インラック政権を4年前に同じ手段で失脚させたのが、現プラユット首相。陸軍司令官である。


「むかしは、警察の天下だったけど、いまは軍を怖がっているわね」


 トップが軍人なので、警察も大きな顔はできないのだ、と。


 いちいちうなずける。わたしがひんぱんにタイを訪れていた頃は、警官といえば神のようなものだった。警察署では、うすら笑いで耳クソをほじる警官のまわりを、大勢の一般人が取り囲むのが見られた。平身低頭、かわりばんこで、懸命に困り事を訴える。


“ま、素直にしてれば諸君らのつまらん話も、きいてやらんでもないゾ”という態度がありありであった。


 そんな警官が、このところはわりと働くようになったそうである。


 パタヤの海辺は、援助交際待ちの女性たちが、数キロに渡って立っている。もちろん違法行為である。ニュースで、そんな女性の一部が、外国人に睡眠薬泥棒を働く事件が相次いでいると報じられた。


 かつては、見せしめにときおり捕まえては、小金をゆすりとって釈放する程度だった。いまは、大きなテントが張られ、警官が常駐し、女性ひとりひとりに身分証明を求めたり職務質問を行っている。


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「そういうところも変わったけれど…」


 といって彼女はかるく周りを気にする素振りを見せた。ヤーバー、ヤーアイ(註1)がかつてない程安く、簡単に手に入るようにもなった、という。


 私がパタヤの通りを歩いている時、ちょっとした騒ぎに出くわした。若い女性が、道路の真ん中でうつぶせにつっ伏している。その倒れ方が尋常ではなかった。


 日本でも泥酔者が歓楽街でのびているのは、ありふれた光景だけれど、まるで違う。墓石が倒れたかのように、鼻の頭から倒れてぴくりともしない。自動車やオートバイが目いっぱいのスピードで行きかい、ぎりぎりでよける。


「薬をやって、自分の限界をこえて酒を飲むと、そうなるの」


 ヤーバー、ヤーアイは、中枢神経をぎりぎりまで活性化させる。どれだけ酒を飲んでも身体はぴんぴん。さらにアルコールを足すと、脳が強制シャットダウンする。酒だけなら、じょじょにろれつがまわらなくなるけれど、薬が入っていると、いきなり気絶。


 どこでその瞬間が来るか分からないのが怖い。海に落ちるとどうなるだろうか。そんな薬が誰でも手に入るようになった。


“虎”の彼女の考えでは、かつてタクシンは首相時代に、麻薬密売人を相当殺害した。いまは、逆転現象がおきている。値崩れするほど隣国から薬物が流入。具体的な売買の場所や売人までたいした秘密でもなさそうに話す。


「分かるでしょ? それがどういうことか」


 話の収集がつかなくなって、チェンマイの話題でお茶を濁そうとするわたし。このところ日本人やヨーロッパ人の観光客は、チェンマイを目指す。代わりにパタヤで増えたのはツアーバスの中国人、インド人。


 中国人は集団で物を買いたたく。インド人は自国の文化にしか興味を示さない。インド料理屋やインド人向けクラブに集まるばかり。地元民にはあまり歓迎されていない。


 彼女の話しは分かりやすく、4年間の穴を埋めるのに十分だった。


「パタヤで2年も働いてると、気がおかしくなってくるの、それを薬でごまかしているうちに、自分がますます分からなくなる」


 この町の暗がりに吸いこまれそうで、おぞ気が立った。急に酔いがまわってきた。ホテルに戻り、気が付くと昼すぎだった。


(註1)ヤーバー、ヤーアイは覚せい剤の一種。ヤーアイの方が、より強力で毒性が強いとされる。