神仏は妄想である528

大乗仏典から、そして、初期基督教、東方基督教、景教からの影響と、少しばかり、仏教とキリスト教の比較をしてみた。


私に言わせると、大乗仏典は、おおよそ、誇大妄想の類である。


更に問題は、大乗仏典は、梵語、サンスクリット語で、書かれた。つまり、それは、バラモンの概念を使用して、仏陀の教えを書いたと言うことである。


当然、バラモンの教義も、入る。

更に、それが、漢訳されたのである。


例えば、禅の思想は、漢訳されて、老荘思想の概念から、多く解釈された。当然、禅の思想に、老荘思想が入る。


日本の禅の思想は、多く、老荘思想によると、私は考えている。


空の思想が、老荘思想の、無の思想に似る。


大乗仏典の、誇大妄想は、インド人の癖である。

つまり、それを持って、仏法などとは、戯けた話である。


そして、面白いのは、霊能者と言われる人たちも、一応、神秘主義者も、法華経に関して、無智蒙昧である。


漢訳された、妙法蓮華経を、マジに、受け入れている。

それに、帰依するというのだから、始末に負えない。


また、そこから、更なる、妄想が始まり、狂いに似た、とんでもない、お話しを思いつく者もいる。


すべて、創作である。

それでは、本当の、シャカ仏陀の言葉は、何処にあるのか・・・


原始仏典と言われるものに、ダンマパダという、経典がある。

今、手元に、その現代語訳がある。


ダンマパダは、紀元前563年から、483年に渡る、仏陀の言葉を収録したものである。

おそらく、紀元前3世紀頃に、北インドで取集され、その後、伝承されて、紀元前1世紀頃に、スリランカで初めて、文字にされたもの。


ダンマとは、法、公正、正義、真理、規律という意味。

パダとは、道、歩み、基礎と言う意味。


ダンマパダは、南方仏教の聖典である、パーリ語に移されて記録され、その後、スリランカと、東南アジアにおける、仏教の根本経典となった。


私の本は、英訳されたものを、日本語に翻訳されたものである。


つまり、英語の概念から、訳されて、更に、それを日本語にしたものである。が、奇想天外な、お話しは一切ない。


その第一章から、引用する。


ひとは心に思うものになる

あらゆるものは 心に思うことから生じ

思いによって世界は創られる

不浄な心で話し行動するなら、かならず苦しみがやってくる

荷車を引く牛に車輪が従うように


ひとは心に思うものになる

あらゆるものは、心に思うことから生じ

思いによって世界は創られる

清き心で話し行動するなら、かならず喜びがやってくる

影がひとについて離れないように


どうだろうか・・・

全く、大乗仏典とは、ほど遠いものである。


そして、何より、具体的である。

特別、難しい言葉遣いではない。


「ああ、あのひとはどれほどひどく私を嘲り、殴りつけ

打ち負かし、奪って行ったことか」

そうした思いを抱いたまま生きるなら、あなたは憎しみのなかに生きる


「ああ、あのひとはどれほどひどく私を嘲り、殴りつけ

打ち負かし、奪って行ったことか」

そうした思いを捨てるなら、あなたは愛のなかに生きる


何も、難しいことはない。


しかし、それを実行するとなると、実に、難しいのである。


この世界で、憎しみが憎しみを追いやったことはない

ただ愛のみが憎しみを追いやる

これはいにしえからの変わることのない法則


いつの日か、あなたもまた去って行く

そのことを知りながら、どうして争うことができようか


と、いうように・・・

何気ない言葉の数々が、記されている。


私は、野蛮な、キリスト教白人に、聞かせてやりたいと、思う。


勿論、現代日本仏教、愛好者たちにも。


まだまだ、紹介するつもりだが・・・

簡単に言えば、シャカ仏陀は、心の在り方を説いている。


心に思うものになる・・・

人は、まさに、心に思う者に、なるのである。


人は、行為によって、成る者になる。

と、ということだ。


仏陀の平等主義である。

すべては、心の問題なのである。


そこには、奇想天外な教えはない。


いつの日か、あなたも去って行く・・・

皆々、死ぬのである。

だから、どうして、争うことができようか

と、なる。


実に、静かな、教えである。

この仏陀の言葉は、独り静かに、静かに、その語り掛ける様子を思い、受け入れなければならない言葉である。