神仏は妄想である529

ひ弱な樹は、いともたやすく風に倒される

肉体の感覚の中に喜びを求め、食と惰眠を貪るなら

あなたもまた根元から倒されよう


しかし風は、山を倒せない

目覚めし者、強くてつつましき者

自らを制し真理の法則に従う者

そのひとに誘惑の手は触れることさえできない


もし、汚れた思いを持っているなら

もし、愚かにも偽りに満ちて過ごすなら

どうして黄色の僧衣を纏えようか


もし、自らを制し

聡明で曇りなき心をもち、誠実であるなら

そまひとがまさに黄衣を纏うべきひと


ダンマ・パダ


仏陀の言葉は、出家者に言われた言葉である。


それほど、その言葉を実行するのは、難しい。

在家であれば、無理である。


だから、上座部仏教、初期仏教は、出家が原則だった。

更に、上記の言葉には、妄想がない。


大乗仏典とは、あまりにも、かけ離れているのである。


あなたが真実をもって偽りとなし

偽りをもって真理となす間違いを犯せば

本当のこころ(ハート)の在処は見過ごされ

心(マインド)は欲望で満たされる


偽りを偽りとして

真実を真実として見なさい

こころを見つめ

あなたの本当の声に従いなさい


思慮浅き者の心は

ひ弱な屋根の家

感情の雨が激しく降りかかれば容易に流される

しかし屋根が揺るぎないなら

そこは雨をしのぐ安けき場所となる


ダンマ・パダ


何となく、聞き流してしまう言葉の、数々である。

だが、これが仏陀の言葉だった。


何も大層な話ではない。

心の在り方を説いている。

つまり、生活指導である。

出家者の生活指導を、仏陀は説いたのである。


難行苦行を避けて、静かに、息をして、静かに心を見つめる、生活である。それが、出家者だった。


仏法とは、何か・・・

上記の心の、生活指導を言う。


とろこが・・・

日本仏教、そして、仏教系の新興宗教は、どうであろうか。

中には、仏意仏勅の仏法などと、掲げる、狂った集団もある。


その根拠が、大乗仏典という、嘘偽りの仏典である。


仏陀の仏に成るということは、上記のような言葉に込められている。

幻想でも、妄想でもない。


だが、大乗仏典による、仏とは、妄想である。


まして、唯一絶対のような、仏など、存在しない。


誰であれ、不浄な思いに従う者は

この世と、来世で苦しむ

二つながらの世で苦悩する

自分の為した過ちを見る苦しみは

どれほどのことだろう


しかし真理の道に従う者は

この世と、来世で喜ぶ

二つながらの世で歓喜する

自分の為したことを見る喜びは

どれほどのことだろう


なぜなら、この世での収穫は大きく

来世での収穫はさらに大きいから

聖なる言葉を、どほど多く読もうとも

美しき言葉を、どれほど多く語ろうとも

もしその言葉を実践しないなら

何の善きことがあるだろう


真理の道を分かちあうことなく

他人の羊を数えるだけで

真の羊飼いと言えるだろうか


読む言葉は少なくとも

語る言葉は少なくとも

ただ、真理の法則に従いなさい


ダンマ・パダ


現代の思想の中では、浮いてしまう、言葉の数々である。

もう、その言葉の力は、限られている。


この仏陀の言葉を、繰り返しのように、話て、新興宗教のような集団を作り上げた、馬鹿者もいる。


死者の供養もせず、葬儀もせず・・・

社会生活とは、離れて、生きるという・・・


世俗化しなかった、仏陀である。

しかし、仏陀滅後、上座部仏教も、籠り過ぎて、堕落した。

仏陀の言葉の意味を探し求めて、一切、社会、在家と関わることがなかった。


つまり、仏陀の仏法は、仏陀で、終わったのである。


道を求めていた時は、良かったが・・・

仏陀の滅後は、その道の意味について、延々と、無益な行為を続けていたのである。

哀れである。