神仏は妄想である530

目覚めていることは、いのちの道を歩むこと

愚か者は死んだように眠る

しかし「己を統べる者」(マスター)は目覚めて

永遠のいのちを生きる


怠りなく己を見張り

曇りなき意識をもつ


目覚めていることがいのちの道だと知ること

それは何という幸せ

覚者の道を歩むこと

それは何という幸せ


マスターはどんな困難なときも

たゆまず瞑想に励み

自由と喜びを求める


さあ、目を覚まし、心の内側に向かい、己を見張りなさい

注意を怠ることなく励みなさい

真理の道に生きれば

光は、あなたのなかでますます大きくなるだろう


マスターは自分自身の島を築く

己を見張り、励む洪水にのみこまれない島を築く


ダンマ・パダ


マスターとは、出家者である。

在家では、出来ない。

在家は、あまりにも、日常生活が忙しい。


つまり、出家しなければ、仏陀の仏法の道は、ないのである。

当然だ。


それほどに、仏陀の生き方は、難しい。


ここでいう、瞑想とは、日本の禅とは違う。

日本の禅は、中国の老荘思想からのものである。


道元は、それをシャカ仏陀の本当の道だと、誤った。

そして、それを自分流に作り替えて、禅宗を成した。

勿論、否定はしない。

以前に、書いているので、省略する。


欲望まみれの、現在の僧侶、特に、日本の僧侶には、期待出来ないのである。

彼らも、また、日常生活に追われている。

つまり、僧侶は、志ではなく、商売になり果てているからである。


だが、時に、人に見せるために、修行という、アホらしいことをする。

育てることも、蒔く事も、採ることも、しない生活である。


何の生産的なこともしない、僧侶という、仕事。

仏陀は、それを良しとしたが・・・

それは、本当に、大変なことだった。


ここでは、永遠のいのちを生きる・・・とある。

これは、キリスト教が言う、永遠の命であろうか・・・

違う。


すでに、人間は、永遠の時の中に存在している。

だが、この世は、借りの宿りなのである。


その、借りの宿りの中で生きることは、実に、難しいのである。


最新の哲学では、世界というものは、無という、結論に達している。

世界は、存在しないのである。


とても、仏教の空の思想、老荘思想の無の思想に似る。


つまり、この世には、何の根拠もないのである。

別エッセイ、生きるに意味などない、を参照ください。


さて、延々と、ダンマ・パダを書き写している暇はない。


私は、神仏が妄想であることを、書いている。

シャカ仏陀が言う、仏とは、妄想ではない。

私が、仏になることを言う。


つまり、人間は、人間として生きる。

それ以外の、何物でもない。


別の空間に存在するという、仏、神というものは、無いのである。

それは、人間の妄想なのである。


すべての答えは、我が内にある。


だが、宗教家は言う。

我が内に、神が、仏が存在すると・・・

何とでも、彼らは、言う。

それが、商売である。


しかし、すべてを捨てて、イエスに従うことも、仏陀に従うこともない。

どっぷりと、この世の欲望に浸るのである。

何も、性欲だけではない。

物欲、欲望と名の付く、あらゆるものである。


宗教に入信するとは、ただ、迷いである。

信じる行為は、蒙昧なのである。


そして、騙され続ける。

無いものを、在ると、信じることほど、愚かなことはない。


私は、霊的存在を否定しない。

だが、霊的存在が、自ら、神を名乗り、仏を名乗るものは、信じない。


霊的存在は、名乗る必要がない。

つまり、この世の次元と異なるからだ。


次元の異なるものは、隣にいても、遠いのである。

いや、別物である。


人間は、必ず死ぬ。

そして、その次元の違いを知る。


ただ、それだけである。

心の弱い人は、信仰など出来ない。

それは、強固、頑固になるということである。


そのために、死ぬことまで、受け入れる、頑固さである。

そこに、救いはない。

殉教という、馬鹿馬鹿しいものは、本当に、馬鹿者である。


何一つとして、確定したものは、この宇宙には、存在しない。

ただ、たゆたう、のである。