神仏は妄想である531

見張り番にとって、夜はあまりに長く

疲れた旅人にとって、行く道はあまりに遠い

真理の道を外れた愚者にとって

幾代にも、生まれて生まれて彷徨う道は

あまりに果てしない


旅をするなら決して愚者を道づれとしてはならない

賢者に出あうことなく

ともに歩む友なければ

ただ一人で旅をつづけなさい


「おおわが子よ、おおわが宝よ」

愚者はそう言って苦悩を抱く


しかし子たちを、財産を、どのようにして吾がものにできようか

自分自身さえ吾がものと為しえぬ身でありながら


愚者とて

自分を愚かだと知る者はさほど愚かではない

自分を賢いと思う者こそ

本当の愚者


・・・

愚者は自らを敵となし

間違った行いで自ら滅ぶ

その苦しみは計りしれない


なぜ、あとで悔やむひとをするのか

なぜ、泣いて悲しむことを招くのか


あとで悔やまぬことのみをして

自らを喜びで満たしなさい


愚者のなす間違った行いは

しばらく甘い、蜜のように

しかし最後には苦汁となる

その苦しみは計りしれない


愚者であっても

笹の葉先にのせたほんのわずかの食べもので

幾月もの断食行をおこなうこともあるだろう

しかし真理の法を食する賢者にくらべれば

なんの値打ちがあるだろうか


・・・

愚者は何を学ぼうとも

そのことで、さらに愚かな道をゆく

知識が、かえって頭を混乱させるから


なぜなら愚者は学んで、こう望むから

人に認められたい

人より前に出たい

人より上に立ちたいと


「私のしたことを世に分からせたい

 私の指図を人に仰がせたい」

それが愚者の求めるもの

それが愚者の膨らみ止まぬ驕り


一つは富と名声への道

もう一つは究極の真理へと続く道


世に認められるを求めるよりも

目覚めたひとに従い

そして自由になりなさい


ダンマ・パダ


シャカ仏陀の言葉は、仏陀の瞑想によって、成った言葉である。


だが、現代人には、必要のない言葉、あるいは、全く理解出来ない言葉となる。また、日本仏教愛好者、つまり、僧侶たちにも、受け入れられない言葉になる。


簡単な言葉だが、それを実行するには、出家以外にないからである。

現在の日本の仏教の、僧侶は、出家ではない。


あらゆるものを捨てて、出家するという、僧侶は、皆無であろう。

シャカ仏陀の、仏法は、出家することにより、可能になる。


だから、日本仏教を奉じることは、ない。

勿論、現在は、檀家性も崩壊し、更には、寺などは、奈良、京都、そして、歴史的建造物として、存在するのみである。


先祖供養の形も、変容する。

そして、葬式も、僧侶は必要ない。


その説教も、空回りの、戯言である。

要するに、役立たずなのである。


生きるに必要な、言葉は、もう皆無である。


神仏は妄想である、から、すべての宗教は、崩壊する。

勿論、商売としての、宗教は、益々盛んになる。

騙される人が、今も、続々と、存在する。


カトリックの洗礼を受けた、ある女性が言う。

日本には、本当の信仰がない。

日本人は、本当の宗教を知らない、と。


呆れた。

本人は、騙されたことに、気づいていないのである。


本当の宗教が、カトリックだと、信じ切るのである。

これ以上の、馬鹿者がいるか・・・


それでは、私は、少しばかり、シャカ仏陀の、瞑想について、書くことにする。


以前も、仏陀の教えは、何か、ということについて、書いたが・・・


もう一度、見直してみる。

ただし、私の独断と偏見ではなく、学者の文を引用して、書いてみる。


私には、その瞑想も、悟りも、あまり興味がない。

何故なら、私は、賢くも、愚かでもない。


普通の人間である。

そして、ただ、普通の人間として、死にたいと、願っている。

余計なことを言えば、日本人として、その、もののあはれ、という風景に死にたいと、願っているからである。


死を怖れる心が、神仏を作り上げたことは、すでに実証済みである。