日々の言い分262

何事の話題でも、単純、そして、その知識のみで、判断する、あるいは、批判する人が多い様子である。


更に、知らぬということを、知らないのである。


私のエッセイで、神仏は妄想である、というエッセイを読んで、私の事を、宗教が嫌いな人という人に、会うことがある。


何事に関しても、一言では、言えないことが、多々ある。


私が宗教が嫌いで、神仏は妄想である、を書いていると、信じている様子である。


違う。

それを書くために、どれ程、多くの宗教書を読むか・・・

毎日、果てしなく、宗教関係の本を読む。


知らずして、何を、言えるのか・・・とは、思わない。


それほどまでに、批判するというのは、それを知り尽くす覚悟が必要であると、気付かないのである。


大半の宗教に関する書籍を、若い頃から、読み続けて来た。

そして、入信もした。

更に、手当たり次第に、新興宗教の書籍を読んだ。


そして、ようやく、神仏は妄想である、との、結論を得た。

だが、結論を得たが、再度、入信することになるかもしれない。


と、いうより、私は、日本の伝統である、神道、更に、それ以前の、古神道、更に、それ以前の、古道に至る。


慰霊師として、活動するので、その古道を利用する。

人から見ると、神道の信者となるだろう。


だが、私の中では、神道は、宗教ではない。


宗教という、概念は、西欧のキリスト教の、神学から出た、言葉である。


それは、様々な宗教は、いずれ皆、キリスト教に、帰着するという、考え方が基本である。


実に、傲慢なのは、白人たちの常である。


特に、キリスト教白人とは、一つの主義ともいえる。


宗教が基本的に、嫌いならば、宗教のことなど、学ぶことはない。

そんな暇は、ないのである。


何故か・・・

世の中には、死ぬまでに修められる、学問、思想、哲学など、あろうか・・・


延々と、死ぬまで、学び続けるしかないのである。

死ぬ寸前まで、学ぶこと以外に、方法はない。


ある宗教を、専門としている人とも、渡り合えるほどに、学ぶことが出来なければ、神仏は妄想である、など、書くことが出来ない。


例えば、キリスト教神学という、世界は、死ぬまでに、学び終えない世界であり、それは、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教にも、言える。


嫌いと、好きの、問題ではないのである。


だが、私を宗教が嫌いな人という人は、何も知らないのである。

生半可な知識だけを、持つ。

呆れる。


エッセイを読めば、いくら書いても終わらないだろうと、予想するはずである。

書き切れないテーマなのである。


そして、膨大な知識が必要である。

更に、それを理解する、能力である。


私は、頭が悪いと知っているから、同じ本を繰り返し読む。

更に、宗教関係の書籍は、無限ともいえるほどに、ある。


読むという行為だけで、終わることもある。


そして、人間の妄想力に、茫然として、佇むのである。


人類が誕生した時から、宗教に似た心境を持った、人間である。

それが、特に発達し、言葉を作り、観念を作り上げる過程は、実に、興味深いのである。


宗教が、まさに、それ、である。


その、宗教に対して、様々な角度から、アプローチする人たちも、大勢いる。

肯定から、否定まで、幅広い。


私は、イギリスの科学者、リチャード・ドーキンスの、神は妄想である、から触発された。


それ以来、私は、疑問だったことを主にして、書き始めた。

仏教、キリスト教が、主になる。

だが、イスラムも、その他の宗教も、取り上げてと思うが、無理である。


イスラムと言っても、その神秘思想などになると、お手上げである。

勿論、ある程度の知識を持つが、それを書き尽くすのは、無理。


キリスト教神秘主義も、同じく。


ユダヤ教から出た、様々な、書き物も、無理。


更に、今は無き、宗教についても、無理である。

精々、キリスト教、仏教を主として、書き続けるのが、関の山。


それでも、死ぬまで、書き続けることになる。


と、いうことで・・・


何事も、一言では、終わらない。

ただし、日本の伝統には、和歌の世界があり、多くを語らない世界があるので、救われる。


日本人として、それは、本当に良い民族である。

そして、日本人に生まれて良かったと、心底、思うのである。