西田がいかに「無」というものを、「いかなる罪人をも包み込む暖かい心」というように捉えようとしても、それは容易なことではなかったでしょう。しかし、人との別れ、過去への追想、失われた時間への罪悪感、そこからでてくる運命的なものの享受といったことがらをひとつひとつ通過し、自らの根底にある「悲しみ」を凝視してその先に「無」を求めていたことは間違いないのです。そこでようやく「もはや私というものはないのだ」ということになる。そうするこで「悲しみ」を「悲しみ」として受け入れることができるようになる。ということはもはや「悲しみ」を悲しむ必要もない、ということでしょう。
佐伯
真実、悲しみに出会うと、その悲しみに、絶句する。
言葉が無くなる。
そして、最終的に、受け入れるしかなくなる。だが、それでも、厳しいのである。すると、悲しむ、私と言う存在を、無、にする以外にないのである。
私も、無、と言う存在なのである、という諦観である。
それはひとつの覚悟、あるいは勇気を与えることになります。もうひとつ西田の書簡から引用しておきましょう。「私の心の底には何処までもすなおに与えられた境遇に処して静かに死の神の鎌をも受けたいという勇気も沸いています」と述べるのです。
佐伯
つまり、死ぬほどに辛い、悲しみは、死へと結びつく。
だが、その、死も、無なのである。
さて、日本の精神には、どうも人との別れや死の経験から「無常」を知り、「無常」を通して、「私」などこともなげに翻弄する大きな運命を感じとり、そのまえに自らを消滅させてゆく、という心の働きがあります。
佐伯
これは「滅私」であれ「私去」であれ「無我」であれ、「私」というものを脱する方向へ向かうもので、西田にもこの日本の伝統的な精神と深く共鳴するところがありました。「私」よりもその向こうに「無」を見ようとする。「無」というものをわれわれはいつも意識の底に抱えている。逆に、日常の具体的な意識は、いわばこの「無」に映し出されたものといってよい。「私が、私が」というこの「私」なども、考えてみればそんな確かなものではありません。
佐伯
私という意識も、妄想の内にあると、私は言う。
本当の私など、どこにも、存在しない。
ただ、今の意識のみの、私という意識である。
だから、無意識に、云々という言葉が出てくる。
私という意識も、妄想なのに・・・
生きるに意味など、見出せる訳がないのである。
また、見出したと言った途端に、それは、消滅する。
次の時間が、始まる。
実は、「無」とは、意識という「図」を浮かびあがらせる真っ白な、あるいは透明な「地」のようなものといってよいでしょう。この「無」という「地」の上に、「私」というような具体的意識がおぼろげに浮き上がり、蜃気楼のような「図」を示すのです。
佐伯
とても親切な、解説であり、表現である。
別のいい方をすれば、「無」とは鏡のようなものであり、しかも、それ自身は自らを映し出しません。だからそれはどこにも「無い」のです。ただ、日常の「私が、私が」という意識を消し去ってゆけば、この「無」を感じ取ることはできるでしょう。
佐伯
これは、境地である。
日本の精神は、その境地を目指したものである。
この、鏡という表現は、面白い。
天照大御神の印は、鏡である。
鏡をご神体として、祀る、習慣が日本にはある。
その鏡を覗くと、私が出る。
私が映るのである。
神は、私であり、そして、それは、無、なのである。
西欧の思想には、決して、真似のできない、精神的境地である。
ユダヤ・キリスト教には、そんな境地は皆無である。
兎に角、唯一絶対の神が、存在するから、始まる。
すべては、そこからのものである。
勿論、それは、人間が創作したものであるが・・・
それが、無ければ、話が始まらないのである。
だから、日本人の、無の思想、観念を、理解出来る、何物もない。
彼らも、同じように、悲しみに暮れるが・・・
それも、神の内なのである。
そこには、人間など、介入出来ない。
だから、その教えに強制されて、生きる。
その野蛮さも、少しばかり、強制されて、まともに生きることが出来る。
しかし、日本の精神は、すでに、見通している。
すべての、根底には、無、がある。
もののあはれ、がある。
それが、どんなに切ない、悲しいことでも、もののあはれ、なのである。
そして、意味が無いのである。
意味の無いところに、無理に意味を見出す必要はない。
この私という、存在に、意味があるのか・・・
無いのである。
ただ、存在していることだけは、確かである。
そして、それは、確実に、死ぬのである。
この世から、去る。
この世の、価値観・・・
そんなものが、通用しない、死後の世界に行くのみ。
生まれたから、生きる、のである。
一体、それ以外に、どんな意味があるというのか・・・
意味付けを行う前に、糞して、寝る方がいい。