生きるに意味などない122

生きるに意味などない、という、エッセイを書いて、ここまで来た。


日本人の心性にある、無常、という感覚は、仏教の、無、あるいは、空、という観念から発したといえるが・・・

実際は、あはれ、という言葉があったのである。


無、空、という、観念を受け入れられたのは、あはれ、があったからである。


それは、もの、皆、あはれ、なのであるという、諦観である。

そして、生きるために、特別な、意味は必要なかった。


それは、死ぬと、自然に戻ると考えたからである。

死ぬ、しかし、それは、自然の一部と化す。


死ぬことは、消滅ではなく、自然に帰ることなのだ。

その後は、自然に隠れると言う。


人が死ぬことは、自然に隠れる存在になる。


そして、繰り返される、人生である。

死者は、先祖になり、そして、祖霊になり、神になる。


縄文期から、そうして、日本人の心性は、培われた。


特に、意味や、意義を見出すという、行為は、西洋文明が入ったきた、明治期である。


それは、また、キリスト教文化が入ったということでもある。

キリスト教のよる、神学なとを見ても、語り尽くすという、行為である。

更に、西洋の、哲学、思想も、その神学に対決する、あるいは、その中のものとしての、それである。


語り尽くす・・・

日本には、そんな文化は無い。


逆に、言挙げせずという、心性である。

つまり、言葉にしないのである。


そのために、所作を伝えてきた。

所作という、動作であり、行動である。


言葉は、神であった。

言葉を発すると、その通りになるという、言霊の心性だった。


だから、日本人ほど、言葉を大切にした民族は、いない。


そこで、心根というもの、境地というものが、最も大事なことだった。


さて、自然を先生として、自然から、多くの事を教えられた民族である、日本人である。

その自然の様は、循環であった。

そして、人間もその中の、一つである。


だから、日本の風土を無視ではない。

これは、風土の問題である。


荒れ野で、説教を繰り返した、イエス・キリストのような、存在は無い。


釈迦仏陀も、風土により、その教えは、穏やかである。

仏教が、日本の陽を陰として、受け入れられたと、私は言う。


日本人の生きる道は、陽であり、仏教の教えは、陰である。

その、陰の教えが入り、無常という、観念が出来、無常観というものが、定着する。


更に、無常観は、無常美観を生む。

それらは、すべて、もののあはれ、の風景である。


すべてが、流れて行く。

その流れの一つが、人間の存在である。


何も言うことが無い。


言葉を尽くすこともない。

言葉を尽くすと、病む。

病む人の言葉は、実に多い。


この、21世紀は、もう、西洋文明が、消滅しつつある。

もう、無理なのである。


ユダヤ・キリスト教は、自然破壊の最たるものとなっている。

大航海時代から見れば、キリスト教白人が犯した、自然破壊は、凄まじいものがある。


つまり、砂漠化である。


北米、南米・・・

その他、諸々・・・

それは、神の創造したものは、人間の手に委ねられてあるという、傲慢な考え方である。


自然崇敬などという、感覚は、皆無である。


その、傲慢な思想が、最早、通用しなくなった時代なのである。


神の存在を基にした、様々な、生きる意味付けは、もう、無用になった。

人間は、神の存在が無いことに、気づいたのである。


神の存在がないことは、西洋人、いや、欧米人の絶望であろう。

だが、神は、もう、死んだのである。

だから、神による、人間の存在意義もない。


それが、幻想、妄想に支えられてあることに、気づいた時、どうなるのか・・・


生きる、基軸を失う。

そして、失ったのである。


5000千年に渡る、神への信仰が、崩れると、どうなるのか・・・


西洋と、白人の世界が、崩壊する。

ユダヤ人と同じく、白人たちは、また、旅を始めるだろう。


そして、彼らが理解出来ない、考え方、無、空、あはれ、に驚愕する。

すべての根底にあるのは、無、であるという、考え方を受け入れるのは、容易ではない。


運命を自らの手で、作るという、傲慢は、もう、通用しないである。

運命は、あはれ、であるという、日本人の心性を知れば、驚くだけではなく、信じられないだろう。