日本の精神にあるのは、境地を目指すというものだった。
つまり、言葉の扱いは、そのためにある。
だから、言葉が少ないのである。
語り、語り尽くす、西洋の精神とは、全く、逆である。
それは、そのまま、和歌の伝統に生きている。
更に、日本語の言葉は、シラブルである。
だが、一音に意味がある。
いかに、言葉少なくして、思いを伝えるのか・・・
それが、日本的なのである。
だから、物に思いを託すという、所作が出来た。
更に、物に、心が宿るという、考え方も出来た。
大量生産の、大量消費という、欧米の考え方に、騙されて、今、日本は、そのようであるが・・・
本来は、違う。
使い続けることによって、その、モノに、心が宿ると、考えたのである。
モノを大切にする心は、精神を作る。
この場合の、心は、体の総体であり、精神とは、脳の働きである。
さて、佐伯氏の、話を続ける。
西田の著作には「絶対無」という言葉がしばしばでてきます。しかしそもそも「絶対無」などという概念は意味をもつのでしょうか。
西田哲学は「無の哲学」だとか、「無の思想」だとかいわれます。だが考えるまでもなく、そんなものは形容矛盾以外の何ものでもありません。「無」を哲学する? 「無」の思想? それ自体が形容矛盾なのです。「無」そのものがひとつの言葉であり概念だからです。「無」という概念、つまり表象、言葉という実体でそれを表現しているのです。「無」といった時点で本当は「無」ではなくなっているのです。
佐伯
まさに、その通りで、矛盾、甚だしい言葉である。
無、とは、無、であり、それ以外に、語ることは、無い。
実に、無意味である。
だが、実は、それが、人生なのである。
そこで、私が、人生は無意味である、と言うことを聞いて、人生が、無意味であるものかと、言う人たちが、確実にいる。
だが、実相は、そのなのである。
無、という前に、一体何があるのか・・・
唯一絶対の神の存在があると、言う人たちは、論外。
論じうるのは「有」、つまり「存在するもの」だけだというのです。哲学や思想の対象になるのは「有」(存在するもの)であって、「無」ではない。根源にあるものは「無」ではなく「有」である。「有」から出発すべきである、ということです。
佐伯
それは、欧米の哲学、思想である。
そして、それらの、哲学、思想は、もう、終わったのである。
「無」が言葉である以上、「無」ではなく「言葉」が根源にある、というべきだ、といわれる。この議論には確かにいい分があるでしょう。「言葉が始めにありき」なのです。ということは、「言葉を使うもの」としての人間があり、言葉の構造がまずある、ということになる。「無」を論じることはそれこそ無意味である、ということになる。
佐伯
だから、無、が根底にある、人生は、無意味なのである。
言葉の発祥は・・・
伝える、書き残す・・・
色々、ある。
そして、人間は、ついに、言葉で意味付けをするようになる。
それが、幻想、妄想を生んだのである。
勿論、宗教の妄想も、余りある。
言葉によって、人間は、創作するという、芸当を覚えた。
それを、真理だの、絶対だのと、意味付けて、支配することを、覚えたのである。
それを簡単に言うと、ヤラセ、ということになる。
大衆を騙すために、言葉が大量に利用される。
メディア、マスコミ等々・・・
言葉に騙されて、行動を促される。
そして、それに、意味をつけられる。
更に、自分を忘れて、人の意味付けしたものを、所有すると、満足する。
実に、哀れである。
哲学、思想、宗教、主義、主張に、騙されて・・・
意味を与えられて・・・
そして、死ぬ。
何と人間とは、哀れな存在になったのか。
私という意識さえも、曖昧で、その存在さえも、曖昧なのである。
昨日の私と、今日の私を、何故、同じ私だと、信じられるのか・・・
慈悲深い私が、明日は、極悪非道な私になる、場合さえある。
何一つとして、確たるものを、持たない、私という、観念である。
その、私を疑うこともせず、私が生きていると、信じている。
勿論、すぐに、死ぬが・・・
生まれると、死ぬ、人間の定めを、忘れて、生きる人に、生きる意味など、必要ないだろう。
生まれたから、生きている。それが、事実である。
それ以外に、何か意味を見出すことが、必要なのか・・・
詐欺師は、言葉を操り、人を騙す。
しかし、詐欺師ではなくても、言葉を操り、自分を騙して、生きている。
私が、私を騙すのである。
実に、哀れである。
あはれ、とも、書く。