生きるに意味などない124

くどいようだが、この世に確たるものは、無い。

何一つ、無いのである。


そして、それを自覚する、私と言う意識も、無い。

私と言う自覚は、流れている。

ただ、流れいるだけである。


その流れは、いずれ、死ぬことによって、止まる。

そして、死ぬことは、生きることの、救い、である。


人間は、生まれた時から、救われているのは、死ぬからである。


少しばかり、想像しみると、いい。

この宇宙の歴史の中で、人間の一生は、目を閉じる程度の、長さである。


一瞬の、瞬きの内に、人生がある。


そんな程度の、人生を生きるのに、唯一絶対の神も何も、存在するわけがない。

それは、暇つぶしの最たるものである。


死ぬまで、精々に生きていれば、事足りる。


生きるに意味などあると、考えている暇に、生きれば、いい。

人生に意味など無いのに、在るかの如くに考えるから、おかしくなる。


為すべき事を成す。ただ、それだけである。


ところが、ご苦労なことに、ここに、不安を抱く人がいる。


例えば、人間へのまなざし、霜山徳爾著から、紹介する。


不安は人間の条件のようなものであるが、異常心理学的な考察にとっては、それは主として、精神病者や神経症におけるそれらの問題になってくるであろう。そして、ごく原則的にのべるならば、世界の中における自己の存在それ自身への不気味なおびやかしが出没するという点で、精神病性の不安、特に分裂病者、うつ病者の不安は、一般になんらかの意味でコスモス的なものであり、それに対して、神経症の不安は、その存在における自己認識を混乱させる意味で、普通はカオス的であり、その逆ではないことに注意しなければならない。

霜山


こうして、生きるということに、複雑な感情を持つ人が、登場するという、呆れた、行状である。


以前、人間は、大脳化したことにより、始めから、神経症だという、岸田秀氏の、お話しを載せた。


元から、人間は、おかしいのである。

そのおかしい人間が、更に、複雑になる過程である。


現在は、病識の無い時代である。

病識が無いことが、狂いの、決定的な証拠だったが・・・


もう、周りの人が、皆、狂うのであるから、狂っていても、皆、狂っているから、当たり前になる。


心理学では、統計で、狂いを裁く。

多くの人が、当たり前なものが、正常という、狂いである。


少数は、狂いなのである。

だから、差別が始まる。


それを、延々と繰り返してきた、人類の歴史である。


そろそろ、それを終わりにするべく、私は書いている。


人間の、すべての幻想、妄想は、この不安感から、発した。

その不安を感ずるのは、人間の、何処の部分か・・・


当然、脳である。

脳が、不安を感ずるのである。


そして、それに対して、専門家が何やら、それなりの理屈をつけて、商売をする。


不安の、出所は、もう分かっている。

脳なのであるから、脳に、何事かを与えると、良い。


昔、精神分析をしていた時代は、延々と、何事かをやり尽くしていた。

ところが、抗不安薬で、一発、不安感が、消滅して、精神分析の、延々とした、時間が、いかに、馬鹿馬鹿しいものかを、知った。


更に、うつ病なども、薬一つで、改善した。


勿論、それらは、商売であるから、実に、汚いやり方をする。

つまり、病人を作り出すと、儲けるということである。


何から、何まで、用意周到に、人間は、それらを生かして、生きて来た。その人生に、意味など、ある訳がないというのが、私の言い分である。


そうすると、世界全体が、狂いの人で、溢れる。

商売は、益々、繁盛する。


と、話が横道に逸れるので・・・


これからは、不安に関して、少しばかり、書き続けることにする。


不安も、幻想、妄想のうちである。

つまり、幻想、妄想で、生きづらくなった人は、病人として、扱われる。

だが、それでも、平然として、生きている人たちは、正常ということで、扱われる。


宗教施設に行くと、狂っている人で、溢れている。

最初から、狂っているのである。


それが、不安だから・・・

何に対して、不安なのかを、知らない人たちである。


訳が分からなくて、不安なのである。

だから、屁理屈の、不安の現象学というものを、見てみる。


コスモスとカオスとは対立する概念であり、カオスはかえってこれを整理し、秩序だてることの可能性を内包するが、コスモスはどのような形であれ、すでに一つの世界なのであって、ここでは不安は属性ではなくて、いわば本質に属するものになっているのである。

霜山


不安は、属性ではなく、本質に属する・・・

実に、気持ちの良い、分析である。


そう、それは、何か分かったような、気にさせるのである。