人間の不安について・・・
体当たりして行く。
しかし精神病者や神経症者における不安を取り扱うにしても、重要であるのは、常に不安というものの一般的特性を基盤的に考察しなければならないということであり、さらにいっそう注意すべきは、「不安それ自身」というものは決して存しないものであって、存在するものは常にこれこれの不安な「人間」であり、問題であるのはそのような人間「がある」ということなのである。
霜山
ここで、明確なことは、不安それ自身、は、存在しないのである。
つまり、不安、という感情、感覚は、幻想、妄想であるということ。
そして、もう一つ、それは、脳内物質のせいである。
これが、答えだ。
しかし、専門家は、専門家として、色々な、見方をする。
それが、面白い。
いかに、人間は、生きるに、暇つぶしの元を作り出すのかと言う事だ。
死ぬまでの、暇を潰すために、人間は、自ら、問題を作り出すのである。
だから、何度も言う、死ぬことは、人間の救いなのである。
さて、
そして精神病理学の出発点がいつも人間の現実性であるとすれば、その意味で不安を考察する場合の基本的な前提として次のことが強調されねばならない。すなわち、存在論的にわれわれにもっとも直接に与えられているものは何かといえば、それは身体性ということである。
不安の問題は常にこの身体性における一つの体感性の現象学として扱わなければならない。身体性というものは、われわれの所有ではなく、まさにわれわれそのものであり、まことにわれわれは文字通り生身な存在なのである。
霜山 改行は私
本当に、専門家、らしい書き込みである。
どうしたら、このように、回りくどい書き方が出来るのか・・・
不思議だ。
そして、このように、専門家の書いたものを、読んで、理解したと思う心の、哀れさである。
さて、身体性である。
まさに、当たり前のことである。
身体があって、人間は、生きられる。
ちなみに、ロボット同士の会話の中で、それぞれが、何と、体が欲しいと、言うのである。
そろそろ、ロボットにこの世を明け渡し、人間は、引き下がる方が、いいのかもしれない。
実際、呆れる程、人間は、余計なこと、いらぬことをして、生きている。
そして、そこに、意味を見出すと言うから、笑う。
一体、この世に、何の意味が、あるのか・・・
ある訳が無い。
すでは、作られた意味である。
それが、思想とか、哲学とか、あるいは、神学という、仰天する様である。
身体性における、一つの体感性の現象学・・・
ご丁寧なことに・・・
不安は、それなのである。
体感性の、現象学として、扱うのである。
人間の不安が、高尚になる、瞬間である。
神経症の中に、不安神経症という病名があった。
現在は、あまり用いられない。
つまり、不安の種類も多くなり、一々、何々、神経症と名付けるようになった。それで、名付けられて、安心する、馬鹿な人たちがいる。
更に、それに近い、強迫性である。
根は、同じものである。
強迫神経症・・・
それが、体感性として・・・云々である。
実に、面白いのは、我々は、生身の存在である、という、言い分である。
生きていると言うことは、生身であるということで、死ぬということは、生身ではない、ということ。
いずれは、生身ではなくなるという、真実。
アノニムな、物体的な身体というものは、概念的には考えられるかもしれないが、実際に存在するものは、私や汝の「ある」身体であり、それはそれぞれの生命と分かちがたく結びつき、決して世界の非個性的な一断片、ないし事物ではない。それはまさに主体性ということなのであり、存在する身体としての「私の」身体「があり」、私は私がそれである身体なのである。
霜山
若い頃、霜山氏の、論文を読んで、実に、気分いい思いをした、記憶がある。
何せ、知らない言葉が出て、存在している、私と言う、存在を確たるものとして、認識させてくれた。
有り難いことだった。
でも、今は、違う。
迷惑である。
不安一つを考えるのに、やたらに、多い説明は、面倒である。
こういう、言葉の好きな人がいる。
やたらに、小難しい言葉の、羅列である。
勿論、否定はしない。
それでこそ、専門家である。
専門家は、専門家の言葉を使う。
それが、仕事、商売なのである。
さて、それでは、素人の私は、不安を、どのように説明するのか・・・
死ぬまでの、暇つぶしのために、脳が勝手に、妄想するものである。
精々、死ぬまでの、辛抱である。
不安は、不安のままに、生きることが、最高なのであるが・・・