20世紀になると都市部の人口集地では、フェアリーからクイアまで、多種多様な習慣や名称が生まれた。
20世紀初頭のフェアリーはまるで服を着替えるかのように、女性のような仕草を含めた振る舞いを、容易に「身に付けた」たり「脱い」だりできた。だが、これを性転換したいという希望と解釈するのは誤りである。・・・
ギルバート
現在は、ホモセックシャリティとはカテゴリー化された、アイディンティティの幅広いスペクトラム、連続体を指し、通常は、現在広く浸透している、ゲイ・レズビアンという語を含んでいる。
だが、そういう言葉と、倒錯者、小児愛者、両性具有者、トランスセクシャル、つまり、性転換者、トランスヴェスタイト、つまり、異性装者という、古くからある概念を、混同しないことである。
それらの概念は、臨床医学、社会科学の文献に見られるが、セイム・ジェンダー関係の文化的形態からは、離れた、異なる現象を意味する。
精神医学、精神分析の著書で定義するように、「セックス」は生物学的要素として規定され、「ジェンダー」は文化的に学習され、パターン化された役割、アイデンティティ等などとして、規定される。
歴史的に見ればセックス/セクシャリティ、そしてエロス/身体の区別は希有であり、明白なものではなく、古代ギリシャ時代から20世紀初頭までは、社会的関係における実際の行動が重視された。
それとは対照的に、ジェンダーという概念は通常20世紀に構成されたとみなされているが、それ以前にも多くの区別が存在し、それがジェンダー研究へとつながった。
ギルバート
19世紀、ホモセックシャリティは、ジェンダーの反転、あるいは、倒錯と見なされていた。
当時は、女性身体にうちに、捕らえられた男性、あるいは、男性身体のうちに捕らえられた女性といった解釈が、一般的である。
ハヴロック・エリスをはじめとする著述家の中には、男性のホモセックシャリティを、先天的で無害なものとみなし、寛容な態度を見せる者もいた。
フロイトなどの一部の人々は、男性同税愛を、心的ハーマフロダイト、半陰陽者と呼んでいた。
フロイトは、ホモセックシャリティを第三の性、あるいは、イギリスのエドワード・カーペンターなどの、性改革家がいうところの、中間の性の一種とみなしていた。
レズビアンに関しては、前回の通り、レズビアンを病人、犯罪を犯したアウトローとして、扱うという、考え方である。
つまり、社会的に女性をコントロールし、家父長制の権威を維持しようとする、試みの現れに過ぎないことは、歴然としている。
さて、ホモセックシャリティという概念は、1869年、ドイツ医師、カール・ウルリヒスによって、創出された。
ウルリヒスも、後のフロイトも、「男性性」と「女性性」の生物学的な同義語として、「受動」と「能動」の差異の非常に重視した。
同性愛者は、仲間である、「倒錯者」ではなく「異性愛者」にのみ、魅力を感じるという考え方が、同時の同性愛者自身に、広く浸透していた。
そして、男性同性愛者は、女性のようなものであり、男性的な異性愛者にしか、魅力を感じないものだという、文化的ステレオタイプを、彼らは、無批判に、信じていたという。
非常に強い、偏見である。
さて、1890年代に入り、初めて、ヘテロセクシャル、異性愛者、という概念が一般的な言説に登場するのである。
その観念は、男が女に惹かれるのは、自分とは異なり、受動的、女性的、感情的であるからという理由を挙げて、一連の二つの一組になった、退避関係や、ステレオタイプは、両ジェンダーの平等な関係の実現をも、困難にしていた。
これは、ジェンダーの歴史である。
19世紀、性分化に関わる用語として、ホモセックシャリティがまず最初に、発せられた。
その意味は、変則的なものを意味し、異常で、不自然なものと、見なされた。
つまり、当時は、ヘテロセクシャリティから、ホモセックシャリティへの堕落は、退廃と疾病の証であり、子供にも、成人にも見られる、警戒すべき兆候と見なされていたのである。
この、疾病の一つとして見られてきたという場合、それは、正常なセクシャリティから、異常なセクシャリティの堕落という理論が、医学、公衆衛生に関する、議論に登場したのは、19世紀のことである。
その、疾病の兆候の一つして、他の男によって、挿入されたいという欲望が生じるという、奇妙な考え方が、当時はあった。
また、ホモは、女の脳であり、レズは、男の脳であると、考えられていた。
ここで良く解るように、学者、研究家は、兎に角、二分法で考えということである。
更に、蒙昧なのは、女という形態が、男の変形と見なすというもので、これは、聖書の創世記の、アダムのあばら骨から、イヴが生まれたと言う、神話からのものである。
これらの歴史的、変転を見ていると、本当に、ご苦労さんである。
さて、女性蔑視の思想は、女は、医学的、哲学的、宗教的な意味において、男の体より、劣っているということである。
私は、この、性について、で、男の体が、女の体の出来損ないであるという、ことを書いている。
この家父主義的イデオロギーと、「めめしい」ホモセックシャリティを疾病として治療するという考え方との関連は、男性同士の愛が19世紀の男性にとっては強烈な脅威であったことを、漠然とではあるが物語っている。
ギルバート
つまり、欧米の考え方には、聖書という、ユダヤ・キリスト教が原点にあるということだ。
ギルバートには、悪いが、それが、この問題の、歴史の、大本である。
欧米人は、聖書から逃れられないのである。
すべては、聖書から始まる。
ここで、強烈な脅威というのが、問題である。
何故、脅威と見なしたのか、である。
聖書は、性を怖れるのである。