マスターベーションとは、この闇のゲームにおける醜い罪人であり、また身体と社会の退廃と混沌の原因として非難の対象となった。19世紀、堕落という主要な病の一つであると広く見なされていたマスターベーションは、ホモセックシャリティの主たる原因であり、視力の喪失や、様々な精神病の一因であると医師によって報告されることが多かった。
ギルバート
以前、マスターベーションに関して、多くを書いたので、ここで少しばかり、触れるのみにする。
1930年代に入ると、自慰のわずかな可能性を取り除くために、ベッドに入る子供たちの体に、器具が取り付けられたのである。
自慰は、危険な堕落であり、異性との性交渉を望む、健康的な生殖に向かう欲望や、結婚からの逸脱を招くと、考えられたのである。
マスターベーションに関する、強迫観念の中で、目を引く特徴といえば、伝染病のごとく、伝染するという、思い込みである。
それに、感染しないようにと、医師たちは、親に注意せよと、警告した。
更に、売春、不自然な習慣は、ホモセックシャリティの原因となると、考えられていた。
呆れるほどの、蒙昧である。
つまり、今の時代も、後の時代から見ると、蒙昧なのかもしれない。
性病に関連した医学ゃ医学思想が、どれほど西欧文化のカテゴリーとしてのホモセックシャリティに影響を与え、それを形成してきたのだろうか。医学は人々の信念思想に計り知れないほど多大な影響を及ぼしてきたが、同性に向かう欲望に関する概念は医学理論より早くから存在した。
西欧の歴史をひもといてみれば、ホメロス時代のギリシャ及びローマ帝国といった古代社会を含め、中世期から前近代末期、16世紀以前に至るまで、幅広く同性との性的関係に関する史料を見出すことができるだろう。
ギルバート
歴史的概念について論じた、フランスの学者、ミシェル・フーコーは、ホモセックシャリティを19世紀の西ヨーロッパの医学及び、政治経済が作り出した、社会的構築物のカテゴリーとして、捉える。
それは、診療所の増加、医学研究の深まりから、国家と、権威者の間に協調関係が生まれ、その関係は、セクシャリティ、ジェンダーのあらゆるカテゴリーを医学化し、大衆をコントロールした。
フーコーは、
ソドマイト、男色者はその時のみの異常であったが、今や同性愛は一つの種族とされている。
と言う。
それは、医学的枠組みが社会統制のメカニズムを作り出し、ホモセックシャリティ、ヘテロセクシャリティという、文化的類型を含めた、個人の能力の型を統制するようになったと言う。
18世紀の世界観によればあらゆる人間は、少なくとも時折、両性に欲望を抱くことがあろうと考えられていた。・・・
性器の挿入が行われない限り、同性との性的関係や役割は専ら、当時の家父長制を強化するものとなっていた。
ギルバート
当時は、四つのジェンダーが存在した。
男、女、ソドマイト、サフィストである。
ただ、サフィストは、受け入れられなかった。
つまり、女が男となり、その結果、男の権力や恩恵を獲得することは、議論の種となり、当時の社会における、男の権威と女のセクシャリティ支配に対する、反発である。
だが、ソドミーは、西ヨーロッパ諸国に、新たに出た、セイム・セックスに対する、欲望とその習慣のカテゴリーの一つとして、扱われたのである。
結局、セックスの形態は、社会的影響を受けるということである。
いつの時代も、そのようである。
何せ、10世紀、セックスとは、自然な、男女の正常位による性交のみを、意味すると考えられていたのである。
それは、カトリック教会が定めた、セックスの方法である。
非生殖行的な性行動が、一般大衆の間では、頻繁に行われていたにも関わらず、不自然なもの、異常なものと見なされていた。
それは、教会の教えである。
ギルバートは、それに関しては、触れてないのである。
ただ、
ヴィクトリア時代の世界観から受け継いだ、偏見や二元論ーーー男、女、ヘテロセクシャリティ、ホモセックシャリティ、男性性、女性性・・・
と、なる。
19世紀のクローゼットに隠されたホモセックシャルは、社会の暗部に身を隠す生き物であり、社会の片隅でうごめき、卑しい行為にふける吸血鬼のような存在であった。隠れホモセックシャルから、10世紀末のゲイ及びレズビアンへの変容は苦しい道のりであったが、社会は着実に進歩していった。
ギルバート
ホモ嫌悪は、人間を抑圧する社会的、道徳的暴力であることを、ゲイ運動が、まだ明らかにしていなかった頃、ホモセックシャルは依然として、個人の罪業、疾病、精神病理上の問題とされていた。
だが、ゲイ及び、レズビアンの、改革的政治活動や、解放運動、そして、公開、秘密の二元論を一層複雑することになった、カミングアウトにより、多大な影響を受けて、その分類は、意味を失った。
更に、現在は、ゲイ、レズビアンが、社会の周辺から中央に躍り出ようと闘う。そして、それが、性改革運動、性開放運動となり、社会的、政治的権力は、もはや危機に瀕して、常に批判に晒されるようになった。
これは、時代性であり、時代精神である。
もう、この流れを止められない。
まだまだ、歴史的事実を負うが、現在を見ると、そろそろ、セクシャリティの自由な世界が、出現する。
ゲイパレードは、世界の至る所で行われて、それには、政治家も、企業も、協賛するという、状況である。
もう、無視出来ない存在になっている。
そして、これから、家族とその形の変容である。
この、時代性について行けない人は、滅びるのである。
ただし、差別意識は、残る。
それは、人間の、性、さが、である。
差別意識によって、生きられる人もいるということだ。