死ぬ義務

人生には、何一つ、確定しているものがない。

ただ、死を除いては・・・


つまり、死ぬことは、確定している。


人間は、死ぬ義務があると、私は言う。

そして、義務があるということは、権利である、生きることがある。


生きるのは、権利である。

死ぬのは、義務である。


こうして、また、新しいエッセイを書き始める。

終わりのない、エッセイである。


そして、あえて言うが、私の文は、名文ではない。というより、名文などは書けない。そして、また、書かない。


更に、起承転結などない。

ある訳がない。


論理矛盾であり、論理破綻することも、多々ある。


最初に紹介したい言葉がある。


われわれが全く執着からぬけだすためには不幸を味わうだけでは十分でない。なぐさめのない不幸が必要であり、言葉で表現できるようななぐさめが少しもあってはならない。

シモース・ヴェイユ


凄まじい、自虐の言葉である。

それでは、私は、それに加えて、言う。


人生の執着から離れるためには、言葉にあらわせないような、幸福でも十分である。


言葉のトリックに、騙されてはならない。

人間の言葉は、イメージであり、現実ではない。

それを、踏まえて、言葉というものを、取り扱うべきである。


慰めのない不幸・・・

言葉で表現できるような、慰めが少しでもあってはならない・・・



つまり、人間は、自殺する手前まで、悩むものである。

勿論、悩む必要もないが・・・


悩まなければ、人生は、解らないものになる、と言う。

だが、悩み方というものがある。

通常の悩みは、悩んでいるという、思い込みである。


ただの、ポーズが、悩みの正体である。


大半の悩みが、ポーズなのである。

要するに、死に関すること以外の、悩みというものは、単なる、格好なのであると、言う。

それ以上の、悩みなど、ある訳がない。


その証拠に、死ぬと、悩みは、解消される。

実に、馬鹿馬鹿しいものである。


死後も悩みが続くと考えるのは、心霊学である。

心霊学は、後々で取り上げる。


私の場合は、霊学であるが・・・


さて、このエッセイは、長年に渡り考え続けてきたものである。

いつか、書きたい・・・

そして、それは、私のためである。


人のために、わざわざ書く必要などない。

要するに、私が読みたいものを、私が書くということである。


何故か・・・

死に関して、納得した読み物がないからである。


学者たちは、馬鹿の一つ覚えのように、世界の文献から、死についての、書き物を紹介するが、自分の死については、皆無である。

つまり、自分が、死、というものを、どのように捉えるのかには、答えない。


哲学から、宗教その他、諸々・・・


勿論、宗教になると、とんでもない、妄想全開になるから、呆れるが、後々で、取り上げることになるだろう。


結論から言えば、死期が近づいた人は、断食して死ぬべきである。


定義づけ出来ないが、延命治療という言葉があるが・・・

延命治療は、嘘である。

あれは、医者が金儲けのために、やることである。


その証拠に、寝たきり、植物人間になっても、管だけになっても、生かしている。それを、止めると、殺人になるという、国の法律で、金儲けを保証される。


そして、また、その遺族たちも、延命治療を望むという、馬鹿馬鹿しさである。

ひとときでも、長く生きて欲しい・・・らしいが・・・


どうせ、死ぬ。

確実に、死ぬ。


笑えない話は、延命治療した人が、生き続けて、それを求めた人が、先に、死んだというものである。


これを、どうしようも、ない、と言う。

まあ、人生が、どうしようも、ない、ものであるから・・・


人生とは、一言で言えば、悪い冗談、である。