死ぬ義務2

さて、死というものに、近い人は、誰か・・・

老人、死期の近い病人か・・・


当然、老年になると、死ぬことを、考える。

もう、目の前に迫った、死というもの。


だが、私は言う。

実は、死は、眠りと共に、万人が感じていることだ。


眠りは、死の、予感である。

もし、そのまま、目覚めなかったら・・・

死ぬ、のである。


音楽家の、シューベルトは、まだ若い年齢で、健康を害し、その死期を迎える前の書簡に、このように書いた。

私は、毎晩寝る前に、これで二度と目覚めないことを、願わずには、いられません。


つまり、それは、死の恐怖を覚えずに、死にたいということだ。


このまま、死にたい・・・

通常の人でも、そのように、考える場面があるだろう。

例えば、苦難、苦悩の中にある時などだ。


このまま、死ぬ・・・

それが、幸せだと。


人は、眠りにつく時、死を思う。

それが、自然なことである。


更に、寝る前に、明日、目覚めなかったら・・・という、恐怖もある。


そして、若くして、そのまま、目覚めなかった人もいる。

突然死である。


私は、何度も、そういう人のことを、聞いた。


突然死は、実に、恐ろしいが・・・

死の恐怖を感じずに、死ぬということが、幸いである。

と、書きたいが・・・


その人を、愛する人の、不幸は、余りある。


フロイトは、人間の心理に、快感原則を上げたが・・・

実は、それよりも、深く、サナトス、つまり、死の本能を無視することが出来なかった。


快感原則以上に、根源的な、もう一つの本能的な原則を仮定せざるを得なかったのである。


つまり、

あらゆる生命の目的は、死であるとしかいえない。

との、認識である。


ただし、この問題、生の本能と、死の本能の対置は、それが学問的に十分に展開されないまま、没したのである。


そこで、彼の後継者たちは、大いに当惑した。


サナトス原則の、実証的臨床的な説明が少ないため、多くの心理療法家は、不安を感じつつ、思弁として無視するか、エロスの面のみの考察で、精神分析を、発展させたのである。


だから、精神分析は、未熟なのだと、書きたいが・・・

いまだに、それらを、商売にする人たちがいるので、言わないでおく。


エロスなど、死の前には、吹っ飛ぶのである。

エクスタシーなるものに、死の影を見るなどとは、戯言である。


そのように、言葉の遊びは無用である。


私は言う。

死に敵うものはない。


そして、それが、確実なものなのである。

唯一、人間が、絶対と言えるものが、死である。


聖書の中で、イエスが、誓うな、と言う。

大地にも、天にも、誓うな。そこは、神の玉座、神の国であるから・・・


違う。

人間が、誓えるものは、ただ、死のみなのである。


神仏さえ、人間の死には、敵わないのである。


死人に口無、という。


神仏も、人の口を通して、語られる。

そして、人の語ることは、皆々、妄想である。


さて、老年の人は、死期に近く、そして、死の影が、日々を覆う。

そこで、老年の人の精神状態が出来上がる。


老年の、抑うつである。

メランコリーである。


老人性抑うつ状態、症状である。


勿論、それは、病気である。

だが、病気と判定出来ないものもある。

私は、そちらの方が、多いと思う。


自殺願望の強い人も・・・

ただし、後々、それらを区別して、色々と書くつもりである。


再度言う。

人間は、死ぬ、義務があるという、エッセイを書き続けるのだ。