死ぬ義務3

突然だが、セックスにおける、オルガスムスというものは、先取りされた、一時的な、死であると、言う。


つまり、フロイトの言う、サナトス、死の願望、あるいは、希死念慮は、若いころから、いや、幼いころから、存在するものである。

ただ、知らぬだけである。


生き物の中で、唯一、人間だけが、自殺という、高等な精神状態、あるいは、狂いを持つことが出来る。

何と、人間とは、不自由な存在だろうか。


人間は、生きている間、常に、元気いっぱいで過ごすことが出来るのかと問われれば、違うという。

実際、生きている人間の精神に流れている、精神的感触は、基底的気分は、メランコリーである。それが、病気にならない程度だという。


勿論、抑うつという、病状に発展する人もいる。

うつ病・・・

現代病である。


要するに、文明が発展して、更に、人間の精神が、文明により、錯乱され、疲労すると、当然、気分は、抑うつになる。


特に、日本人は、平安の頃から、そのような、憂鬱感覚を持っていた様子である。


別エッセイ、もののあわれについて、で、源氏物語を書写しているが・・・

実に、この世は、憂世と嘆く場面が多いのである。


そして、更に、老年になれば、どうか・・・

老年特有の、抑うつ感情が発生する。


老年期うつ病という、病気もあるほどだ。


生きている限り、メランコリーから、解放されることはない。

それが、生きることだからである。


つまり、生きるとは、メランコリーを生きるのである。


極めて、孤独な状態に身を置くと、確実に、人間は、希死の思いを持つことを知る。



例えば、そういう状況下に置かれた人たちの、記録が、多く残ている。


強制収容所というもの・・・

今、現在も、存在している。

ナチスばかりが、それではない。


私が知るのは、フランクルの、「夜と霧」である。


現在までの居場所と地位とを奪われ、ささやかな幸せ生活、親しい家族との雰囲気を取り去られ、きびしい監視のまなざしの下に、いずこに連れ去られるか判らずに連行され、いかなる罪だか判らず裁かれ、あらゆる迫害をうけるという点では、分裂病の発症初期の精神病理に比類的に似ている。

霜山徳爾 人間へのまなざし


訳者である、霜山氏の説明である。


分裂病が人間と人間の間の信を奪う孤独の疾患であるとすれば、強制収容所の極限状況における人間の存在様式も同様な孤独感をもって始まるのである。フランクルも、外国から移送された、言葉も通じないいろいろな収容者のグループをたらい廻しにされた、いわば孤独の上に更に荷重される孤独感について記録してる。

霜山


その上に、処刑という、最終結果が待つ身である。

つまり、私は、収容所という、極限の強制であろうが、日常の生活であろが・・・

その人の意識の問題で、孤独感を感じ取ることが出来ると言う。


そして、極限状態における、孤独感というものは、決して、嫌悪するものではない。

ただ、自分の意思に反して、極限の孤独感に陥るらせる、ということは、大罪である。


共産主義の得意技であるが・・・


もともと孤独というものは、人間存在の根源的な条件であるから、それ自身を認めないで、下手な「隣人愛」や「共人間性」などを説くことは目もあてられない感傷に堕することでもある。しかし、実際には強制収容所における生活の孤独は、それとはいわば異種なもので、孤独の上に恐るべき歪曲と醜悪化が加えられているのが普通である。フランクルも収容所の惨状と孤独に関して、「夜と霧」の内で「・・・しかしどのようにして、私たちがそれに慣れたかは聞かないで欲しい・・・」ち述べている所以である。

霜山



その本人が、言うことが出来ないほどの、苦痛とだけ、受け取る。


強制された、孤独感は、凄まじいものがある。


私は、実際は、生きるという、意識の中に、その強制された、孤独感があると、認識している。

生まれたのが、それ、である。

ただ、それを意識しないだけ。


何故、生きるのか・・・

生まれたからである。

そして、確実に死ぬ存在である。


何故、生まれたのか・・・

生きるためである。

そして、死ぬため・・・


死ぬことが、確実であるという、事実から、生まれたことも、我が意識のゆえであると、私は、考えている。

意思と、意識の無いところに、何が、生まれるだろうか・・・


もし、そうではないなら・・・

生まれることも、死ぬことも、私には、一切、関係なく、行われることとなる。

それは、拷問である。


私は、悪い冗談を生きるべく、生まれた。