死ぬ義務4

書き出したいことが、多々ある。

しかし、何とか、順番通りにと、思う。


死に近い、老年期を前回、少し書いたが・・・

老年期だけではないのである。

誰もが、死を目の前にしている。


生まれたばかりの、赤ん坊でさえ、死は、目の前にある。

幼くして、死ぬ者も多い。


例えば、紛争地帯の子供たちは、毎日が、死を目の前にする。

それを、想像すれば、私の、この日本にいる状態などは、屁のようになものである。


ニュースで、学校に爆弾が落ちたと、ある。

当然、生徒たちが犠牲になる。

そこで、痛ましいことと、思っても、詮無いことである。


早死にする。

若くして、無くなることを、早世という。


全く、準備のない、死である。

だが、交通事故、その他の事故でも、若者が死ぬことがある。


そして、それは、誰にでも、訪れることである。

辛うじて、今日は、助かったのである。


死は、毎日、隣に存在する。


福知山線の、脱線事故で、多くの人が、亡くなった。

とても、酷い事故だった。

私が、その後、その事故に対して、深く考えたのは、その事故で犠牲になった人を愛していた人が、耐えられないと、自殺したことである。


その、喪失感に、耐えられない・・・

何と、驚くべき、人間の心理であろう。


ある人が存在しないという、喪失感により、自殺する。

これでは、間接的に、もう一つの死を招いた、事故になってしまった。


私は、考えた。

人間は、この絶望的な問題以外でも、自殺が出来ると・・・


他人から見ると、死ぬ理由が見当たらなくても、自殺をすることが、出来るのである。

昔、私は、ある女性から、相談を受けた。


娘、中学生の娘が自殺したという。

そして、その原因が知りたいとの、相談だった。


解らない。

全く、解らない。

今なら、イジメによるものか・・・との、問い掛けもあるが・・・


最後に、涙ながらに、娘は、成仏しているか、と尋ねる。

私は、即座に、成仏していると、答えた。

これは、私の人間性である。


成仏しているか、否かなど、解るはずがない。

しかし、その母親の心に、打たれたのである。


だから、成仏していると、断言した。


その女性も、娘が存在しないという、喪失感に悩みに悩んだと思う。

そして、彼女も、それで、死を覚悟出来るのである。

だが、私は、生きて欲しかった。


この、無駄の人生を生きることにも、それぞれの、意味があるだろう。

無意味を悟ことが出来れば、幸いである。


さて、人間は、何故、生きているのだろうか・・・


死なずに、生きているのは、何故か・・・


多くの人は、些末な問題解決のために、生きている。

大それたことのためではない。


明日の予定があるから・・・

借金を返すため・・・

旅行の予定を立てたから・・・

お金儲けをしたい・・・


とても、単純なことのために、生きている。

生きている以上は、楽しくなどと言う者もいる。


勿論、楽しいというものが、どんなものであるかは、人それぞれだ。


金で買えないものはないと、言う人は、金だけで、生きられるだろう。

そして、確実に、死ぬ。

儲けた金は、この世に、残る。

ただ、それだけである。


私は、お金を厭う者ではないが・・・

死の前には、お金は、無力である。


だが、有ったほうがいいのだろう。

その死後に、遺産相続問題で、子供たちや、親戚縁者が、争おうとも、お金を得たいのである。


この繰り返しを演じて、人は、生きている、らしい。


さて、次からは、非常に悲惨な、死の場面を見つつ、私の考えを、書いてゆく。


人間は、絶対孤独の存在である。

そして、そのただ中で、死ぬという事態、それを多くの人は、書き残している。

それを、見ない手はない。


限りなく、末期の目である。