死ぬ義務5

大東亜戦争、第二次世界大戦による、犠牲は、民間人を入れて、320万人であり、兵士は、230万人の犠牲者である。


数多くの悲惨な出来事がある。

その中でも、戦争末期、ソ連が、日ソ不可侵条約を破棄して、宣戦布告し、満州に即座に侵攻したことである。


その、ソ連は、日本兵を、国際法違反による、捕虜虐待、抑留、強制労働による、悲惨な強制収容所生活、そして、多数の死亡者を出したことである。


このことについて、日本のジャーナリズム、メディア、マスコミは、全くといってよいほど、取り上げない。

日本人が、忘れてはならない、事態であった。


その記録がある。

石原吉郎氏の「望郷と海」長谷川四郎氏の「極光の蔭に」である。

これらが、大きく取り上げられることは、未だに、ない不思議である。

つまり、ジャーナリズムも、メディアも、日本に都合の良い話は、取り上げないのである。


それは、敗戦後からの、米軍占領政策による、日本罪人の思想からである。

今もって、それを押し頂くのである。


石原吉郎氏の、「望郷と海」を見る。

昭和20年、敗戦の冬、ハルピンで抑留される。

無実の密告によってである。

その後、南カザフスタンの、アルマ・マタ収容所に入れられる。

ここで、三年の未決期間を経た後、昭和23年夏、北カザフスタンの、カラダンタへ移される。

その翌年二月に、正式に起訴され、カラガンタ市外の、中央アジア軍管区会議カラガンタ臨時法廷において、反ソ罪として、重労働25年という、重い判決を受ける。

全くの茶番なのは、ありもしない、ソ連国籍を剥奪され、拘禁車に乗せられ、苛烈な吹雪の中を、ソ連の強制収容所体制の内に、組み込まれる。


氷点下40度を越す酷寒のコロンナ収容所で、森林伐採、採石作業、鉄道工事などをさせられる。


そこで、あらゆる、屈辱の傷を受けるのである。


多くの同因は死亡するが、彼は、辛うじて、生き延びる。

八年後の政治的特赦によって、やっと帰国することが出来た。


その記録である。


人間の孤独が、極限状態では、どのように恐るべきものに、結びつくかということが、極めて、現実的に語られる。


シベリア、バム地方では、五月になると、マシカと呼ばれる、毒ブヨが発生する。

「それは殆ど一夜の内に発生して、ある朝私たちは戸外に出るやいなやマシカの群れの内にいた。むき出しになった皮膚へ針で刺すような痛みとともにわっとまつわりついてものを、私たちははじめ理解できなかった。この地域に数年前からいる少数の「経験者」を除けば、私たちは殆どこれについて無知であった。経験者たちはおよそ必要な警告や助言を私たちに与えなかったのである・・・」


「こうして私たちは、予想もしない事態に逢着するごとに、自分ひとりの力でこれを判断し、理解し、対処することを学ばねばならない。たとえば、マシカにとりつかれたら、手ばやくこれをふりおとす。ころしてはならない。刺された後はなるべく水で冷やす。掻いてはいけない。マシカはいったんとりついたら、からだいっぱい血をすってしまうまでは決して飛びたたない。・・・蚊をころすよりも容易であるる。それはただてのひらでおさえるだけでたりる。しかし、おさえた結果はさらに悲惨である。血の匂いはおどろくほど敏感なマシカはおしつぶされた血の痕へあっというまに集まってくる。無経験な私は、最初の日にこの失敗を犯した。夕方、乾いた血で真っ黒になった手首を水で洗ったとき、皮膚の一部がうそのようにめくれおちるという目に会った。・・・私たちはこれらの教訓をひとつひとつ、ただ自分の経験を通してまなびとるほかなかった・・・」


これを、ただ、何となく、読めば、何のことはない文である。

しかし、この孤独な姿である。


全く、不本意に抑留され、収容所に入れられて、労働する。

意味は無い。

この無意味に、耐えられるのか・・・


しかし、これらを、読めば、読むほど、私たちの日常生活が、果たして、それではない、つまり、意味あるものだろうかと、不安に思う。


意味があるつもりで、生きている・・・としたら・・・


別エッセイで、生きるに意味などない、というものを、書いているが・・・


こちらは、死ぬ義務、である。

それを、見るために、こうして、極限の孤独と、死というものを、見ている。


ここでいう、孤独とは、一匹狼とか、独行者が孤独なのではない。

また、天涯孤独という、孤独でもない。


問題は、極限状態において、孤独になれない孤独があるということである。

果たして、そんな体験を日常の中で、経験するだろうか。


育児放棄される、子供がいる。

その子は、孤独なのであるが、孤独になり切れないのである。


孤独は、子供にとって、死を意味する。

更に、孤立も、そうである。


そういう、切迫した精神状態を、日常的に経験することは、あまりないのである。


何を言いたいか・・・

それが、死というものに、向かう人間の、姿なのであるということ。


実は、その孤独は、死によって、もたらされるものなのである。

勿論、延命治療の場などでは、本人に関わりなしに、治療が行われ、そして、心臓が止まると、死と、医者に、判断される。


だが、その本人の精神、意思は、何処にあるのか・・・