もののあわれについて933

明け行く程の空に、妻戸おしあけ給ひて、もろともに誘ひいでて見給へば、霧り渡れるさま、所がらのあはれ多く添ひて、例の、柴積む船のかすかに行きかふあとの白波、「目なれずもある住まひのさまかな」と、色なる御心にはをかしく思しなさる。山のはの光やうやう見ゆるに、女君の御かたちのまほにうつくしげにて、「かぎりなくいつきすえたらむ姫宮も、かばかりこそはおはすべかめれ。思ひなしの、わが方ざまのいといつくしきぞかし」、こまやかなるにほひなど、うちとけて見まほしく、なかなかなるここちす。水のおとなつかしからず、宇治橋のいとものふりて見え渡さるるなど、霧晴れ行けば、いとどあらましき岸のわたりを、匂宮「かかる所にいかで年をへ給ふらむ」など、うち涙ぐみ給へるを、いとはづかしと聞き給ふ。





明けて行く頃の空に、妻戸を押し開けて、一緒に、端にと誘い、御覧になると、霧が立ち込めている景色も、山里ゆえに、あはれも、ひとしお深く、例の如く、柴を積む船が、霧にかすんで、行き来する。その跡に立つ、白波など、見たこともない、住まいの様子だ、と、華やかなご性質ゆえに、とても面白く、考える。

山の端に、次第に差し始めた光に、女君のお顔が、整っていて、可愛らしく、この上なく、大事にされている姫宮でも、この程度で、いらっしゃる。気のせいか、自分の身内が、立派に思えるものだ。と、きめ細やかな色つやなど、くつろいで見ていたくて、かえって、切ない気がする。水の音が、騒がしく、宇治橋が、とても古びて見えるなど、霧が晴れて行くと、一層、荒れ果てた川岸の景色なので、匂宮は、こんな所で、どのようにして、年月を過ごしていられたのか。などと、涙ぐみになるのを、とても恥ずかしいと、聞いていらっしゃる。





男の御さまの限りなくなまめかしくきよらにて、この世のみならず契り頼め聞こえ給へば、思ひ寄らざりし事、とは思ひながら、なかなか、かの見なれたりし中納言の恥づかしさよりは、と、覚え給ふ。かれは思ふかたことにて、いといたく澄みたるけしきの、見えにくくはづかしげなりしに、よそに思ひきこえしは、ましてこよなく遥かに、ひとくだり書きいで給ふ御返り事だに、つつましく覚えしを、久しくとだえ給はむは、心細からむ、と思ひならるるも、われながら「うたて」と思ひ知り給ふ。





男の、ご様子が、この上なく、優雅できれいで、現世ばかりか、来世までもと、お約束されて下さるので、思いもしなかったこと、とは思いつつ、かえって、あの見慣れた中納言の難しさよりは、と、思いになる。

あの人の考えていることが、別で、酷く取り澄ましていた様子が、会うのも窮屈で、気恥ずかしかったが、宮は、想像していた時は、いっそう、この上なく遠いお方で、ほんの一行お書きになるご返事さえ、きまり悪く思われたものを、長くお越しが無かったら、心細いだろうと、思うようになったことも、我ながら、変なこと、と、解るのである。





人々いたくこわづくり催し聞こゆれば、京におはしまさむ程、はしたなからぬ程に、と、いと心あわただしげにて、心よりほかならむよがれを、かへすがへか宣ふ。


匂宮

中絶えむ ものならなくに 橋姫の かたしく袖や よはにぬらさむ


出でがてに、立ち返りつつ、やすらひ給ふ。


中の宮

たえせじの わがたのみにや 宇治橋の 遥けき中を 待ちわたるべき


ことはいでねど、物歎かしき御けはひは、かぎりなく思されけり。





御供の者たちが、何度も咳払いをして、催促申し上げるので、京にお着きになる時が、見苦しくないようにと、とても、気がせく様子で、心にもなく、来られない夜もあろうと、繰り返し、繰り返し、言い訳をされる。


匂宮

仲が切れるわけではない。宇治の愛しい姫は、独り敷く袖を、夜半に濡らすだろうか。


出られにくく、引き返しては、躊躇っている。


中の宮

切れないと、私は信じて、お越しの無い長い夜を、待たなければならないのでしょうか。


口には出さないが、悲しそうなご様子は、たまらないと、思うのである。





若き人の御心にしみぬべく、たぐひ少なげなるあさけの御姿を見送りて、なごりとまれる御移り香なども、人知れずものあはれなるは、されたる御心かな。今朝ぞ、物あやめ見ゆる程にて、人々のぞきて見奉る。「中納言殿は、なつかしく恥づかしげなるさまぞ添ひ給へりける。思ひなしの今ひときはにや、この御さままはいとことに」など、めで聞こゆ。





若い女の心に染みるに違いない、世にも稀な、朝帰りのお姿を見送り、後に残る移り香なども、人には言えず、何やら恋しいのは、洒落た心だと。

今朝は、物の見分けもつく時分で、女房たちが、覗いて拝する。中納言の殿様は、優しくて、気恥ずかしくなる様子があったが、今一段と、身分が高いと思うからか、このご様子は、何とも格別で、などと、誉め申し上げる。