神仏は妄想である533

一見するに、そのような問い自体がすでに陳腐なものと化しているように私には思える。そもそも、どれをとっても途方もなく巨大なそのような問題にたいして、仏教が何ごとかをなしうると考えることの方が現実離れしているというべきだろう。誰でも、心の底ではそう考えているのではないか。

山折哲雄


つまり、仏教のみならず、何の問題解決を成しえないのである。

ユダヤ、キリスト教、そして、イスラム・・・


逆に、宗教が混乱を招いているだけである。


時に、仏教系の新興宗教が、なにがしか、社会や世界に、訴える問題、テーマを取り上げているが、何のことはない。単なる、遊び程度である。

金に飽かせて、研究会など開き、それなりに、つまり、信者、会員に、凄い組織であると、喧伝する方法である。


それに乗せられて、また、金を出すと言う、カラクリである。


あえてひとくちでいえば、仏教とは、この「末法」の世においてますます光輝を発するはずの、余裕の哲学だったのではないか。この悲劇的な人生を眺望する、悠然たる倫理だったのではないかと思う。

山折


学者に言われても、僧侶たちには、届かない声である。


要するに、私から見れば、僧侶たちは、何も分かっていないのである。日々の生活のみが、解ることなのである。

それも、惰性の、生活である。


しかしながらむろん、現実の問題としていえば、その余裕の哲学、悠然たる倫理の岸辺にわれわれがたどりつくのは容易なことではない。「言うは易く、おこなうは難し」だ。そこでここでは、その目標に近づくための一里塚として、二つのトピックスをとりあげて現代の仏教を考える糸口にしてみようと思う。

山折


私も、それを紹介したかった。

実は、僧侶たちさえも、知らない、仏教の本当の姿である。


シャカ仏陀の滅後から、仏教というものが、始まった。

仏陀は、仏教などとは、言わなかった。


その、後継者たちが、仏陀の教えを、仏教として、掲げたのである。


ここからは、私が山折氏の、言い分を、簡略化して書く。


第一が、仏教に対する、仏教徒の裏切りである。

換言すれば、仏教の歴史は、仏陀の信仰と思想を、裏切り続けることで、発展してきた。


そして、その裏切り行為を、考察する者がいなかった。その内面を、主体的に、考察する事例が、無いのである。


仏教における、裏切りは、同時に仏教における、偽善の問題とも、分かちがたく結びついている。


第二は、仏教を、仏教学の呪縛から解き放て、とうことだ。

山折氏は、

おそらくそれなしには、仏教が、真に社会化する道がないだろう。仏教が現実的な力をもつことはありえないだろう。

と、言う。


仏教の歴史とは、仏陀の体験と思想を、裏切ることを通して、発展してきたが、その裏切りの歴史を、いわば凝縮した形で、保存してきたものが、仏教学にほかならない。


更に、皮肉にも、今日の日本における、仏教徒は、この仏教学の洗礼を受け、その餌付けのままに、裏切りの歴史を反復し、反芻し続けているのである。


この、上記のことが、理解出来ない、僧侶は、もはや、僧侶を辞めた方が身のためである。

これ以上に、罪を作らないことである。


仏教の数々の輝かしい歴史は、ブッダの考えもしなかった言説を後世の者たちがつみ重ねることで発展していった。裏切りは、ブッダの最愛の弟子であるアーナンダの言行のなかにすでにひそんでいたのである。のちの世の仏教徒たちは、そのアーナンダの生き方を継承したにすぎない。われわれもまたアーナンダの徒として生をうけ食をつないできた。

山折


私は、以前のエッセイで、その、後世の人たちの、仏陀が考えもしなかった、言説を披露した。

それを、積み重ねて来た・・・


まさしく、その通りである。

その一つに、大乗仏典の、愚かさがある。


全く、奇想天外なお話しの数々である。


仏陀が話たことではなく、自分たちの妄想全開の、経典を作り上げた。

更には、原始基督教、東方基督教、景教までの、影響を受けて、である。


また更には、バラモン、ヒンドゥーの神々も取り入れて、とんでもない、御説を書き上げたのである。


それを、まともなものとして、最澄、空海が、日本に持ち込んだ。

日本仏教の云々という、評価よりも、それは、仏教の亜流の、亜流だったことを、思い致すべきなのである。


それらの、仏は、幻想、妄想の仏である。

何の根拠の無い。

シャカ仏陀の存在を利用して、勝手気ままに、解き明かした、偽の仏教、偽の、仏陀の教えである。


根拠がない・・・

全く、根拠がないのである。


ちなみに、キリスト教では、処女降誕を信じ、キリストの復活を信じている。

それが、現実に起こったことであると、信じて、キリスト教徒になる。


歴史的事実であると、信じるのである。


そして、信じる者は、救われるとい。

原罪からの、救いを説くという、誤魔化しである。


人間の原罪とは、実に、野蛮な白人らしい、考え方である。

そうでもしなければ、自分たちの行動を抑えられないのである。


キリスト教白人たちが、少し抑制できるのも、キリスト教の、教義のお陰でもある。

必要なことだった。

その妄想が、である。