神仏は妄想である534

さて、山折氏は、大パリニッパーナ経、日本語では、大般涅槃経という、経典を用いて、解説する。


その第二の問題が、仏陀の遺骨の処理に関わる、裏切りだとのこと。


この経典の最後尾のにあたるところで、仏陀は、遺言を残すようなことを言う。それは、次の言葉である。


アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。

である。


これは、葬式と遺骨崇拝に、心を煩わせるな、ということである。

遺体を焼いて、骨を拾い、供養の対象としたりする必要はない、ということである。

大事なことは、正しい目的のために、努力することである。


どうであろうか・・・

愕然とする話である。


ところが、日本の僧侶は、それを堂々として、また、商売として、やっているのである。

堕落という言葉以上の、呆れた行状である。


僧侶は、葬式とは、何の関係もないと、言っておく。


実際、神道もそうであった。

死体は、穢れたものとの、意識である。

つまり、死体は、もうその時点で、モノなのであり、そこから抜けた、霊に対する所作だけが、まともなことであるという、考え方である。


だから、私は、戦没者の追悼慰霊をする。その際に、遺骨のことは、あまり、意識しない。


遺骨収拾を否定はしないが・・・


大切なことは、霊位なのである。


そして、仏陀の遺体は、入滅後、七日たってから、火葬された。

それから、七日たって、あとに残された、仏陀の遺骨が、八つに分配された。

マガダ国王をはじめ、その地域周辺の住む八部族の要請があったからである。


それらは、やがて、それぞれの地に、ストゥーバ、塔を作り、仏陀の遺骨を安置した。


こうして、仏陀の遺骨に対する、供養がはじまったのである。

それが、仏舎利として、非常に貴重品として、扱われ、更に、それを奉じて、新興宗教まで作る者も、いる。


遺骨の供養を中心とする、葬儀の原型が、その時に、定まったといえる。


遺骨崇拝に対する、行為を禁じた仏陀の遺言はなき物になった。

それは、仏教の罪である。


そして、その罪を、今も延々と繰り返している。

罰当たり・・・


更に言う、

供養とは、生きている人に対する、行為であるはずである。

尊敬すべき聖者を見なば、彼の人に供養せよ・・・

という、仏陀の言葉がある。


要するに、仏陀のような、精神的指導ができる人に対して、供養するものである。

つまり、何もかにも、その後は、勝手気ままに、作り上げた、創作である。


それで、その大般涅槃経には、また、創作がしてある。

仏陀自身の遺言と並び、それと対立するような、葬儀のことが記されている。


仏陀が、アーナンダに向かって、その遺体は、世界を支配する帝王の遺体に対するのと、同じ仕方で処理すべきであると、言うのである。


まさに、創作である。


その方法は、省略するが・・・

宗教の経典は、人間が書いたものであり、その人間に、都合よくなるように、都合の良い考え方を創作するのである。


ここで、人間的な感情、云々を書いても、詮無いことである。

矢張り、仏陀の死後は、ブッダの遺骨を崇敬したくなる、とか・・・


この、大般涅槃経も、最後は、仏陀の荘厳と遺骨崇敬の場面を、最後のクライマックスとして、閉じている。


呆れる。


今、もし、本当に、仏陀の教えた、仏教に戻ろうとしても、無理だろう。

既得権益に、やられてしまった、日本仏教愛好会の僧侶たちが、仏陀の仏教に、戻ることなど、出来ない。


つまり、僧侶たちの、仏とは・・・

嘘偽りなのである。


何一つとして、仏陀の教えを伝える、仏教は、日本には、無い。


まして、大乗仏典を掲げているのである。

終わっている。


この、大般涅槃経を掲げて、宗教を立てた、馬鹿者もいる。

勿論、商売である。

とても、良い商売を思い付いたのである。


救われるどころか、迷いのただ中にあることを、知らない。

知らないことは、無いことであるから、救いが無い。


開祖が、朧げに言ったことを、教義とするなど、論外である。


いずれ、天台、真言の宗派についても、書くが・・・

最澄、空海の、誇大妄想である。


開祖の罪は、重い。


それにより、時代を経て、多くの人が、迷いに、迷ったのである。

だから、私は言う。


神仏は妄想である、と。

人が勝手に解釈した、考え方を、教えとは、呆れるにも、程がある。


もし、霊界に、地獄という場所があるならば、彼ら、僧侶が行く霊界である。

いや、その寺院の上空、建物の上空にある、幽界に留まっている。

何と、そこを、極楽と勘違いしている。