神仏は妄想である535

少しばかり、脱線して、書く。


山折哲雄氏は、仏陀の後の、仏教徒をして、アーナンダの徒、と言うのである。

仏陀の教えを裏切った、アーナンダの徒、である。


いってみればアーナンダの徒の大部分は、葬式という仕事以外これといった正業についてはこなかった。そのことによって、これまで世間から批判されてきたのであるが、これからの時代は、そのような専門的な正業についていなかったという経験が一つの価値をもつようになるだろう。自然人的な無為の徒として生きて来た略歴が、不思議な光沢を帯びて人々の眼に映るようになるはずである。

山折


上記は、外れる。また、外れた。

僧侶たちの、未来に対する、励ましのような文であるが、もう、遅いのである。


現在、時代は、宗教を必要とせず、更に、仏教界は、衰退の一途である。

それは、時代性である。時代精神である。


そして、新しい哲学、思想により、超えられる。

神仏を信じる時代ではない。


葬式の形態自体が、変化している。

どんどんと、簡略化されている。

更には、必要な場合、業者が僧侶を呼んでくれ、料金が明確に決められた。

とても、良いことである。


ところが・・・

日本仏教界は、それに対して、何と言うか・・・

布施とは、志であり、それを、明確にするとは、何事かと。

呆れる。


明瞭会計ではないことが、どれほど、仏教を衰退させたか・・・計り知れない。

では、キリスト教の場合は、その志でも、数万円程度である。

勿論、数千円でも、いい。


葬式のミサを依頼する。

その時に、司祭に、志を渡すのみである。

カトリックの場合は・・・プロテスタントも、同じ様子である。


神道も、神社神道でなければ、志である。

神社神道の場合は、その飾り付けに、大枚な金が必要である。


戒名は、無いが、その飾り付けは、2~300万円である。

私がする、古道式では、20万円のお礼でする。

飾り付けは、ほとんどない。

後は、葬儀屋へ支払う金額である。


ちなみに、私は、仏教式の葬式を否定するのではない。

母が無くなれば、浄土宗の葬式をする。

これは、家系の伝統である。


祖父母の時代からの、付き合いがある。

そういうことだ。

檀家である。

それを、弟が承認しているだけの話。


しかし、その弟の息子が、同じように、伝統とは思わなくなる時期が来る。

その時、それで、お終いだ。


アーナンダの徒は、いったい何のためにこれまで社会的に無用者と偏視される境遇に甘んじてきたのか。社会的役割をはたさないたんなる徒食者としてさげすまれる立場に耐えてきたのか。有閑の徒、遊芸の徒という悪口をあびせられつづけてきたのか。

山折


楽だからである。

苦しみたくないからである。

楽して、金を得られるからである。


次に山折氏は、

それはかれらの精神的基盤が、そもそも自然人的な生活感覚のなかにおかれていたからである。かれらはそのような自然人的な生活感覚をただひたすらなぞって、今日まで生きて来たのではなかったか。庭をもつ寺に住み、樹木の香りと野鳥の声に接し、頭を丸めたり読経をしたり、ときに意味のよくわからぬ説法を繰り返してきた。なかには遊興にうつつをぬかすものもいたであろう。金銭崇拝の亡者になり観光事業に奔走するものもいたであろう。しかしながらわが国の大部分のアーナンダの徒は、社会の冷たい視線に耐え何ほどかの良心の痛みを感じつつ、半ば自然人的で自由な生き方に恵まれてきた。そういう半ば特権的ともいうべき境遇のなかで、世俗的な仕事にも少しばかり手を出して飢えをしのいできた。

山折


山折氏は、浄土真宗という、偽仏教の末寺に生まれたという。

だから、何か、僧侶たちに、これからの、希望的観測をしている。

が、違う。

終わったのである。


これからの時代に、新しい生き方を提示出来る、アーナンダの徒であると、言うのである。


アーナンダの徒にのこされたこれからの仕事は、その無為有閑の生き方をさらに徹底させ、洗練させることをおいてほかにないということである。仏教の社会的役割、などという近代的な掛け声などにけっして惑わされてはならないのだ。仏教には本来、社会的役割などというものはなかったということを想起しよう。「社会」にたいして世俗的に貢献することがすなわち仏教の使命であると考えたのが、そもそもの間違いだった。

山折


その通り。

仏陀は、それを生きたのである。


次の言葉は、諦めに聞こえるが・・・


アーナンダの徒にとって、第一義の道はそんなところにあるのではない。むしろ無用の人生、無為の生き方についていっそう徹底した思いをこらすことにこそあるのではないか。悠然として遊び、余裕ある気品を身近にただよわせて人生を眺望する、---そういう成熟のライフステージの構想を打ち出すべきときが、いまきているのである。

山折


無理である。

もう、寺の維持さえ出来なくて、僧侶を止める、あるいは、別に仕事を持つ時代である。


もし、そういう僧侶がいたならば、代々の住職を継いで、たんまりと、金を持つ僧侶だろう。


だが、私は言う。

代々の住職を務めた、僧侶の寺は、不浄である。

だから、行くなと言う。

何せ、成仏などせずに、まだ寺に、その霊が留まっているのである。

呆れる。


奈良、京都などの、寺を見て回るのはいいが・・・

歴史的建造物として、である。

その後に、必ず、清い雰囲気の神社に詣でる事である。

そこで、祓い清める事。