生きるに意味などない126

存在する身体としての「私の」身体「があり」、私は私がそれである身体なのである。

霜山


何故、そんな当然なことを、確認するかのように、書くのか・・・

それが、専門家だからか・・・


いや、次に続けるべくの言葉、なのである。


私の「生きられた」身体は他者の「まなざし」によって「見られた」身体ではなく、それは何か他のもの、例えば「生物学的な有機体」などとかにならなくては「まなざしで捉える」対象とはなり得ないのである。

霜山


要するに、徹底して、第三者の眼を持つこと。

それが、生物学的な有機体、である。


そうして、徹底して、冷静に見る時、その不安の意味と、意義が見えるのである。


それから、延々として、霜山の説明が続く。

それを通して、私は、生きるに意味などない、という、エッセイを書く。


とても、それは、充実しているのである。

考え抜かれて、得た、何物かを、無意味とする行為である。


だが、虚無主義ではない。

ニヒリズムではないのである。


虚無主義とは、西洋の思想が、到達した、ある見解であり、日本の、あはれ、という、心象風景ではない。

更に、日本的な思考でも、無い。


霜山氏のような、欧米の思想、哲学、そして、医学を学んだ者は、確実に、言葉で、確実に確認しつつ、言葉を紡ぐ。

そうして、人を説得する。


それが、習い性になった。

日本的思索の、堕落である。

しかし、今は、それが主流である。


また「生きられた」身体が「見られた」身体と相違する点が、根本的に何を意味するかということを考える場合に、「それは「生きられた身体」には意識があるからだ」といって、意識という概念を導入することは必ずしも誤っていないであろう。

しかし注意すべきは、その場合の意識とは、身体に関していろいろと考察するような、いわゆる「かえりみ」意識が意味されているわけではなく、あるいはなんらかの形で身体性からの分裂につきるような意識でもないということである。

霜山 改行は私


かえりみ、の、意識・・・

身体性からの分裂につきるような意識・・・


一々、揚げ足取りのように、取り上げる。


何気なく、読み続けると、見誤る、言葉の綴りである。


つまり、論述の深みに嵌る、言葉の数々である。

ここで、読者は、騙される。

勿論、騙されて読むことだ。


そうすると、何事かが、解った気になる。


または、書き手より、読者の方が、深読みする場合も、多々ある。

受け手側の問題になるのである。


書き手側の、深みを更に、深めて、読む行為を、読書という。

だが、その後は、虚無であることを、前提とすることである。


なぜならば、私が私であるという主体性の本質は、この身体のにない手の意識に関係しているのみならず、身体そのものに密接に関係しているからである。すなわち、身体は人間の「自己」への付け加えられたものではなくて、自己そのものであり、主体性の意識は、生きられたものそれ自身であって、なんらかの形で身体に対立する「かえりみの」意識ではない。なぜならば私は現実に私の身体であるからである。

霜山


長文を、区切って読むと、書き手の、用意周到さが、解る。


つまり、説得力である。


それは、読む者が、当たり前に意識していたと思える、その思いを、書き手が、表現することによって、益々、確信に迫るからである。


矢張り、そうなのだ、という、確信である。

本当は、全く別なことを書いても、読み手が、勝手に、そのように、理解する。


こうして、言葉によって、私たちは、日々、騙され続けている。

勿論、霜山氏の、論説は、まともであろう。

何せ、そのために、学び続けて、専門家になったのである。


決して、矛盾はしない。

論文は、矛盾しないから、論文として、通るのである。


だが、批判というものが、ある。

それは、別の考え方である。

評論も、そのようである。


或いは、よりそれを、分析して、解りやすくする。


私は、霜山氏を、とても、評価している。

何せ、素人の私が、精神病理学を、まともに学ぶことが出来るからだ。


それで、れれを知った後に来るものは、何か・・・

それが、問題である。


要するに、精神病理学を学び、そして、病む人を治療するという行為にある専門家というものの、姿である。


だが、それは、詰まるところ、くたびれもうけの、大損なのである。

一体、人間の精神の療法が、必要なのか・・・という、疑問である。


死ぬ前に、ある程度の正常といわれる状態に、戻ることが、果たして、良いこと、必要なことなのか。

私には、解らないのである。


神経症が、軽くなって、良かったのか・・・

そして、その神経症の、在処である。


結局は、無、に帰する。