生きるに意味などない127

なぜならば私は現実に私の身体であるからである。

霜山


何故、こんな当たり前のことを書くのか・・・

それは、意識させ、自覚させるためにである。


そして、意識し、自覚しなければ、何の問題意識も持たずに、生きる、人間である。


これが意外に理解されにくいのは、およそ人体に対する医学的な対象としてまず考えられやすいということから由来している。その場合には、私の身体はもはや「私にとっての」身体ではなく、それは単なる観察された、かつ外から認識された身体であり、「他の者にとっての」対象である。身体性というものは、いわば「受肉した主体性」そのものであり、また意識との関係における身体というものは、本来は身体に「関する」いろいろな内容の「かえりみ」意識と結びつけられてはならない。

霜山


かえりみ、については、良く解らないのである。

何故か・・・

かえりみ、の、説明が無いからである。


身体性とは、受肉した、主体性、そのもの・・・

主体性というものを、人は、どのように、捉えているのか・・・


主体的に、生きている、つもりで、生きている、人間というもの。

実は、生きているという、感覚は、誤りで、生かされているという、感覚に届ない、意識である。


生きている、つもりで、生きる。

本当は、生かされている、という意識に、気づかないのである。


反省的な自己意識というものは、常に身体というものをすでに対象的に把握しているのであり、たとえその場合、身体がそれぞれの「自分の」身体として考えられたとしても、身体はその時には更に自分から離れた外界に属するものとして、ある意味でいわば疎外されたものなのである。

霜山


疎外されたもの・・・

実に、恐ろしい感覚である。


自分から離れた、外界に属するもの・・・


これは、由々しき、お話しである。

狂い、である。


われわれが反省的ではない意識、すなわち直接的な体験から出発するならば、「生きられた」身体というものの姿を捉える手がかりは世界に対する私の身体の本源的な関係ということなのである。

すなわち、私の身体とは文字通り世界「がある」存在であり、それ自身は体感的に世界を構成するものとしてあるのである。

私の身体は環境の内における私の存在の直接性として非反省的な直接経験の中で体験されているのである。

霜山 改行は私


非反省的な直接体験の中で、体験されている・・・

まことに、意味深な発言である。


つまり、意識せずに、意識しているかのように、生きている、というのである。


生きる意味意識の、体験である。

意味意識があるかのように、生きている。


勘違いである。

多くの勘違いで生きる、人間というもの。


そして、私が、意識する、認識する世界、というものは、何なのか・・・

世界として、意識し、認識している、世界は、本当に存在するのか・・・


新しい哲学では、その世界は、仮想であると、断定している。


つまり、幻想、妄想のうちにある。

世界は、存在していないのである。


それでは、この私の意識、というものは、何か・・・

それは、単なる、死ぬまでの、暇つぶしをしているのである。


意味など無いものに、意味を賦与して・・・


私の身体はあれやこれやであり得る可能性の中で常に変化しながら続いているのであり、ある場合には「おどる身体」であり、ある時には「性行為をする身体」であり、また他の時には「不安な身体」なのである。このように一つの状況として「生きられた」身体は、非反省的な意識においては「所有されている」ということから、はるかに遠いのである。

私は私の身体を、その置かれた場面における、まさにわれわれ自身である存在そのものとして、その直接性において体験しているのである。

自我と身体とは一つとして体験され、体感的に分離しているわけではない。そしてその身体性において人間の世界が構成されているのである。

霜山 改行は私


人間の、不安を論ずるにあたり、この意識と認識を、明確にすること、そして、概念を作り上げることなのである。


これが、学問の世界とも、言う。


実に、当たり前のことを、複雑奇怪に、論ずるという、学問の世界である。

ここで、意味付けの試みが、行われる。


或る意味では、実に充実した世界でもある。


それで、死ぬまでの、暇を潰せるからである。

そうして、臨床の世界で、治療という行為を行う、精神病理学の世界である。医者とも、言われる。


だが、精神科医の死亡率の第一は、自殺である。

実に、矛盾しているではないか。


私は私の身体を、その置かれた場面における、まさにわれわれ自身である存在そのものとして、その直接性において体験しているのである・・・


存在そのものとして・・・体験している。

本当は、存在そのものではなく、勝手に、身体が体験している。だが、その意識が、体験していると、自覚する。


もし、それが、そうではないとすれば、それは、狂いと判定される。

例えば、離人症とか・・・

不安症とか・・・


そして、最も、危険なことは、それを治療していると、信じている、医者の意識である。

究極を言えば、食べるために、仕事をしていると言える。

そして、そのようにしか、生きられなかったのである。


人は、生きられるようにしか、生きられない。