死ぬ義務6

人間にとって、確実なものは、死である。

そして、加えて言うと、救いのない、孤独である。


それは、普段は、感じられない、または、感じないようにしているのか。


人間へのまなざし、霜山徳爾氏の引用をする。


また石原氏は、さらに「ある「共生」の経験から」という作品の内で、この問題を別の面からとり扱っている。

霜山


別の面から取り扱うものとは、孤独である。


収容所では一つの食器に二人分の貧しい食事が与えられる。二人の虜囚はそれを折半するために神経質になって一さじのスープの多い少ないを争う。それは烈しい飢がその分け前の公平さに対して極度に敏感にさせるからである。

共生しながらも二人は少しでも多く取ろうと敵になる。しかし、土工作業をするために、スコップ、つるはしなどの工具の良否が一日の体力の消耗に直接結びつくために、二人はそろって倉庫に飛び込む。

いちはやく目をつけた工具を確保するためには二人の合力と連帯とが必要だからである。しかし、次の食事の時にはまたもや一粒の豆をも争わねばならない。しかし、また夜には一枚の毛布を背中合わせに寝て共有しなければならない。

そして、石原氏は次のような注目すべき言葉をのべている。


「私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する「自分自身を含めて」つよい不信感であって、ここでは人間はすべて自分の生命に対する真の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信こそが人間を共存させる強い紐帯であることを、私たちはじつに長い期間を経てまなびとったのである・・・」


「これがいわば孤独というものの真の姿である。孤独とは、決して単純な状態ではない。孤独はのがれがたく連帯の内にはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気を持たぬ限り、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない・・・」


この最後の言葉はわれわれに痛烈な印象を与える。

それは文学的思弁の果実ではない。暗黙の内に憎悪を承認し合い、お互いがお互いの生命の直絶の侵犯者を確認し合った上での連帯、許せないものを許し、苦い悔恨の上に成立する連帯ーーーこれこそ孤独のやりきれなさなのである。

霜山 改行は私



長い引用だが・・・

ある特殊な状態による、孤独を見つめた、手記により、極限の孤独を知ることが出来る。


そのために、引用した。


簡単に言う。

人と人の関係は、甘くはないのである。


許せない者を、許すという、状況の中でしか、生きられない人間の様である。


常に、人間は、その世界に置かれている。

そして、孤独という、心的状態である。


私は、死というものと、孤独を、切り離して、書くことは出来ない。

このエッセイは、死ぬ義務、であるが、延々と書いて、結果的に、死ぬ技術にまで進む。


紹介した文は、ナチスの強制収容所、そして、シベリア抑留の収容所に入れられた人の、記録である。


その、極限の状態にあって、人間が見つめた孤独と、そして、死である。

確実に、その収容所では、死ぬ。

生き延びた人の手記であるから、運が良かったのである。


運がよかった・・・

これも、テーマになる。


孤独を抱いて、死ぬに人間には、もう一つ、運、というものも考えておく必要がある。


運よく死ぬことが出来るか・・・


あるいは、運悪く死ぬことになるのか・・・


いずれにせよ、人は、死ぬ。

そして、それは、義務なのである。


だから、権利である、生を、享受している。


そこには、納得があるのみである。

悟り・・・

別な言葉で言えば、そうなるのかもしれないが・・・


悟り、という言葉は、手垢にまみれている。

悟った人間に、ロクな者がいない、事実である。


それらは、後々に、人を混乱させるのである。

死後に残った言葉で、多くの人が、混乱している。


はっきり言うが、悟りとは、人それぞれ、百人百様ある。

ただ、一人の人が、悟り、そこでの言葉を発したところで、何の意味もない。


生きるに意味などない、のである。

別エッセイを、参照のこと。


さて、極限状態における、孤独にはなれない孤独があり、実の孤独という、逆説的な状況を紹介したが・・・


それでは、極限状態にない、私たちは、それをどのように、納得するのかが、問題である。

つまり、ぬるま湯に浸かったような生活の中で、孤独を感じる取るということの、納得である。


ただ、それには、救いがある。

死が、目の前に、現れた時である。


誰もが、愕然として、孤独に陥る。

例え、一緒に死ぬ人がいても、である。