死ぬ義務7

ナチスの強制収容所を生き延びた、囚人の証言。


ひとり狼は早死にする、ともかくだれかと関係をわかちもたなければ収容所で生きていくことはできなかった。


極限の孤独状態にあり、更に、そこでこそ、誰かと、関係をわかち持たなければ、ならなかったというのである。


つまり、人は、一人では、生きられない。

どんなに孤独な存在であっても、一人では、生きられないという、観念である。



常々、私は、今、目の前にしている人を、大切にしないで、どうして、生きられるのかと、言う。


それぞれに、孤独な存在である。

だから、こそ、関係を持つのである。


そして、強制収容所に入っていなくても、現実は、それに限りなく、近い生活をしているのである。


その覚悟があって、人生が、初めて、成り立つ。


ナチスの場合は、確実に、死が待っていた。

それでも、人との関係が必要なのである。


これには、また、訳があるが・・・


今は、それに触れず・・・進む。


日常の生活の中では、自由で気ままなようであると、思うが、実際は、収容所と変わらない生活をしているのである。


少しばかり、意識を変えて、みると良く解るだろう。


一体、何物にも、縛られない、生活など、あろうはずがないのである。

例え、一人暮らしをしていたとしても、それは、一人ではない。


確実に、他人との関わりを持って、生きている。


勿論、そこでは、極限の孤独など、意識に持つことはないが・・・


だが、本来は、現実として、絶対孤独の存在が人間なのである。

その、感触を少しばかり持つから、逃れるように、何か、すがるものに走る人が多いのである。


そのすがるモノとは、宗教であったり、政治活動であったり、主義、主張の集いであったり、と多々ある。



人は、群れることで、孤独感を、曖昧にして、更に、蒙昧にする。


本当の姿には、耐えられないからである。



昔、ある相談があった。

二十代の女性である。


乳がんにかかり、入院中で、治療中だった。

夜に、電話があった。

内容は、死にたいという・・・


私の答えは、簡単だった。


いずれ死ぬ身なのに、急いで、死ぬことはない。

それに、がんなら、転移して、早く死ぬことになるかもしれない。


彼女は、その私の、答えに、打ちのめされたという。

そして、生きてやると、思ったらしい・・・


別に、私は、励ましの、言葉をかけるべきことではないと、考えた。

しかし、これ、この通り、人は、一人では、生きられないのである。


誰かの、言葉が必要な時も多々ある。


それが、願った通りの答えだと、安心する。

答えなどは、すでに、用意されてあるのだ。


悩みなどというものは、本当の悩みでない。

言葉にできるような、、悩みなど、何の価値もない。


言葉に出来ないものがある。

それが、孤独の正体である。


その、言葉に出来ぬ悩みを、持ちつつ、人間は、生きるのである。


女性に多いが、言葉による、精神不満の解消をする。

だが、それが、本当の解決になどなるはずがない。


そして、結局、死の間際まで、言葉で、誤魔化すのが関の山である。



ナチスの収容所も、シベリアの収容所も、毎日、生きるのか、死ぬのかの、連続である。

その、極限の中で、我というものを、見つめる。

ある意味では、決して、容認しないが、理想的な状態である。


何故か・・・

人は、死ぬに際して、そのような、状況に、陥るからである。


また、例えば、日本の武士道には、朝、今日が、死ぬ日との、覚悟を持って、家を出る。

そのように、武士の子供たちは、教えられる。


だから、下着は、白である。

とても、有意義な教育である。



本来は、子供の時から、その教育が必要なのである。


確実に死ぬものならば、それこそ、本当の教育の意義がある。

生きるための、教育は、それから、始まる。


まず、死ぬことを、持って、教育とする。

教育とは、そういうものである。


更に、心の教育と言うならば、特に、それである。


毎日が、死ぬ義務の、教育こそ、教育の名に値する。


そこで、本当に、心の余裕を知ることになる。

死に対して、心得ること。


日本の、教育を語る人たちからは、その言葉が一切出てこない。

だから、底の浅い学問に陥る。


学問の、発生は、そこからである。


文字の分析をする、趣味は、持たないが・・・

問うのである、学というものを。


高学歴の者を見て、愕然とするのは、私だけではないだろう。


ただの、賢い馬鹿である。