死ぬ義務8

更に、有名なアウシュヴィッツの収容所では、遅かれ、早かれ、死ぬ、ということが、当然なことである。


それを生き抜くとは、様々な要因によるものとはいえ、その報告からは、同じ痛みの内に書かれているものが、多くある。


そのナチスの強制収容所では、何とか「プロミネント」になることが、「ムーゼルマン」(それは回教徒、瀕死直前の囚人を指す)に陥ることを防ぐ唯一の、方法だった。


プロミネントというのは、カポーと呼ばれる、古参の囚人頭とか、その他、何かの特権を与えられ人で、同じユダヤ人に対して、場合によっては、ナチスのエスエスよりも、残忍に、他の囚人を扱うことが出来る、囚人になることである。


プロミネントになると、少なくとも、エスエスのご機嫌を損ねない限り、食事もよくなり、収容所内を自由に往来し、集団的な処罰も免除され、個室や良い寝具を与えられた。


従って、誰でも、プロミネントになることを、願うのである。

そのためには、仲間を売り、仲間を押しのけても、そこへ行かなければならなかった。


戦後の戦犯の裁判に、囚人自身がかけられたケースは、すべて彼らの残忍な、プロミネントぶりによってである。


しかし、生き延びるには、どうしても、そのエゴイズムを貫かなければならないのである。


孤独とエゴイズムは文学的に形をのぞいては、通常は親和性が低いが、ここでは異常に高くなるのである。

霜山


刑務所と違い、強制収容所には、刑期というものがない。

また、そこに抑留された人々は、常識的に見れば、刑法的には、全く、無罪である。


そして、刑務所には、拷問がないが、そこでは、それが日常茶飯事であった。

それだけに、抑留者は、全く納得のいかない、惨めで、喪失感を味わうことになったのである。


現代流行の軽薄な心理学用語を使うならばアイディンティティの喪失に苦しまざるを得なかったのである。

霜山


自己同一性というものの、喪失である。

私は、何者なのか・・・


普段の生活では、特に病にある人以外は、そんなことを、気にもかけないだろう。


それほどの、苦悩や苦痛がないのである。


ただし、私は、児童虐待のニュースを聴くと、慄然として、恐怖する。その虐待を受けていた、子供の心境を想像すると、心身が痛むのである。


唯一、頼れる親によって、虐待を受けるという行為は、狂う寸前まで行く。

狂わずにいられるのは、それでも、親を信頼しているからだ。


そして、殺される。

それは、その子の問題だけではない。

社会と、その周囲の問題になるのである。


そして、また、それは、私の、死に対する、意識の問題にもなるのである。


虐待されて、殺される。

実は、人生の本当の姿を、そのニュースによって、知らされているのかもしれないと。


シベリアの日本人俘虜の内で、民主グループという、プロミネントが出来て、人民裁判をやったというように、プロミネントは、他の囚人の圧力の上に成立した。


そして、エスエスに対して、従順、尊敬、贈り物、密告と、何でも仮面の縁起によって、認められ、役に立つものとして、忠犬のように、仕えなければならない。


そみには、他の競争者との戦いをも意味し、隣人に対する愛情を、すべて抹殺しなければならない。


エゴイズムは、適当にぼかされて、自他に耐えられるが、これほどに、露骨になり得ることは、人間性に対する、甚だしい、侮蔑である。


そしてこのプロミネントの姿こそ何とグロテスクで、かつ不気味なものであろうか。しかし考えてみれば、それは人間性の一種の拡大図のようなものである。誰の内にも眠っているごくありふれたものにすぎないだろう。

霜山


実に、恐ろしい、観察である。


誰の内にも、眠るもの・・・

人間性を、侮蔑したもの・・・


死ぬことを前にした、人間は、何を思うのか・・・


強制収容所における文字通りの強制によって人間は個性を失って平均化する。そしてそこでは人間はプロミネントになろうとするエゴイズムの孤独とはまた別なものを体験することにもなる。それはプロミネントになる可能性が全く失われた「平均化」された状況の場合である。・・・

霜山


その体験者であり、詩人の石原氏の手記から・・・


「・・・シベリアのタイガ(密林)は、つんぼのように静寂のかたまりである。それは同時に、耳を聾するばかりの轟音であるともいえる。その静寂の極限で強制されるものの、その静寂によって容赦なく私達へ規制されるものは、おなじく極限の服従、無言のままの服従である。服従を強いられるものは、あすもまた服従をのぞむ。それが私達の「平和」である。私達はやがて、どんな形でも私達の服従が破られることを望まないようになる。そのとき私達の間には、見た目には明らかに不幸なかたちである種の均衡が拡幅するのである。」


これが、現実の世界である。

そして、実は、私の生活も、そのようであると、理解している。

何も、収容所に入れられなくても、現実の生活が、それで、ある。


ただ、過酷な労働も、食料の心配もないが・・・

実は、収容所に入っている生活なのである。


死に向かう、収容所に入っている。

それを、自覚するか、否か、である。