死ぬ義務10

さて、素人である私が、物を書く場合、権威がないため、権威ある人の、文を引用する。


だがここで、中世を振り返ってみよう。なぜならわが国においても死の思想が発展したのは、西欧と同じように古代末から中世にかけてであったからだ。すなわち「日本往生極楽記」のような往生伝が数多く編述され、地獄草紙や阿弥陀来迎図が制作されるようになった。往生伝というと、一般に高僧伝や名僧伝のようにうけとめられがちである。しかし実際には、人間の死にかたのモデルを提供する一種の教科書と考えた方がよいのである。しかもそこには、無名の庶民によるさまざまな死=往生のありさまが生き生きと描かれている。

臨死の思想 山折哲雄


しばらく、山折氏の著作と共に、進む。


ここでいう、往生とは、仏教用語である。

日本の伝統から言えば、命、みことあがり、命上がり、ということになる。

あるいは、崩、カムアガリ、神上がり、と言う。


だが、中世は、仏教の教えが盛んであり、その往生という言葉を持って、死ぬという、意味を見た。

往生するとは、死ぬと同義語である。


決して、成仏するとは、言わなかった。

往生とは、また、渡るという、意味である。


何処に渡るのか・・・

それは、死者の世界に渡ることである。


古代日本では、死者の国は、山に存在していた。

だから、先祖の霊を呼ぶときには、山に向かって、呼び、そして、共に過ごした。それを、今は、お盆というが、違う。


御霊祭りと、言う。


人間は、仏にはならない。人間は、霊になると、明確にしていたのである。


その記録を読んでいた胸を打たれるのは、山に登って修行しているかれらの多くが、死期を悟や、ただちに断食の行に入っているということである。かれらはふだんは、滝に打たれ読経をし礼拝の行に励んでいるが、死の間近いことを知るときまって断食をはじめている。やがて一週間がたち、十日が過ぎる。するとかれらの目前に阿弥陀仏があらわれ、近づいてきて頭頂に手をそっとおく。浄土におもむく時がきたことを告げるサインである。そしてその直後に、現実の死がやってくる。

山折


この、断食が、イメージトレーニングに入る、助走なのだろう。

栄養の中断によって、死の恐怖を乗り越え、その後の、身心の軌跡をイメージのり流れに、滑り込ませようとしたのである。


実に、見事な、死に方である。

私も、それに倣うつもりである。


単なる、自殺と違うというのは、そういうことである。

死期を悟る。

悟りとは、それを言う言葉である。


人間は、唯一、死ぬ時期を悟ることが、悟りというのである。


それ以外の、悟りとは、妄想である。

あるいは、勘違い。


阿弥陀仏の姿・・・

それは、彼らが信じ込んだ、幻想であるが、そんなことは、どうでもいいことだ。

死ぬ形が、素晴らしいのである。


つまり、現在に見る、病院での延命治療を受けて、管だらけになり、意識もなく、大半が、植物状態で、心臓が止まるまで、待つという、実に、愚劣な行為ではない。


断食によって、死の恐怖を云々・・・

確かに、死の恐怖との、戦いもあるが・・・


その中には、死の恐怖も、何のそのという人もいたはずである。

死は、恐怖ではない。

恐怖は、死というものが、解らない故に起こる、心のトラブルである。


死というのが、次への移行ということが解れば、何の恐怖もない。

だが、生前に、悪行を重ねた人は、それなりに、恐怖するだろう。


何せ、別の世界のことが、分からないのである。


分からないことに対しての、恐怖であり、死の恐怖ではない。


さて、日本では、今から、900年ほど前に、果敢な実験が行われた。

それは、死者を看取るために、念仏の結社を作り、そのコンセプトの綱領のももとで、一糸乱れぬ、看取りのシステムを作り上げたのである。


当時、比叡山で、学問と修行で、際立った活躍をしていた、恵心僧都、源信である。


その著書は、往生要集である。

念仏結社は、二十五三昧会、である。


死ぬこと、すなわち、往生することのために、壮大な実験に、指導的な役割を果たしたのである。


源信は、942~1017年、我が国で、浄土教を大成した人として、知られている。


浄土教とは、インド仏教の一派で、人間の死後の運命について、最も、精緻な考察をしたセクトの教えである。

勿論、それも、中国を通して、入って来たものである。


この問題に関しては、言いたいことが山ほどあるが、主旨ではないので省略する。


往生要集は、その冒頭に出で来る、地獄と極楽の場面が、有名である。

日本で最初の、地獄、極楽のテキストである。


それは、現在まで続いている、地獄、極楽のイメージであるから、すごいことである。


だが、源信が、最も力を入れて書いているテーマは、人間が、果たして浄土に往生することが、出来るのかという、問題である。


その最後の結論部分にある、臨終の行儀、という章において展開された、行為である。


その、臨終の行儀とは、臨終を迎えようとしている者を、看取るための、作法である。


今風に言えば、ホスピスである。