国を愛して何が悪い210

日蓮の考えた末法の世とは、折伏の時機であった。摂受ではもはやまにあわぬとみたところに、彼の危機感があったということである。法華経を護るため、折伏の必要と必然性をあきらかにしようとしている点に、きわだって特徴がみられる。

亀井


つまり、危機意識である。

危機意識を持つ、時代であり、事態であった。


五戒を受けざれども正法を護るをもって乃ち大乗と名づく。正法を護る者はまさに刀剣器杖を執持すべし。刀杖をもつといへども、我是等を説きて名づけて持戒と日はん。

立正安国論


それ仏説に二説あり。一には摂、二には折。安楽行に不称長短といふごとき是れ摂の義。大経に刀杖を執持し、乃至、首を斬れといふ、是れ折の義。与奪、途を殊にすといへどもともに利益せしむ。

開目抄


今、この時、折伏なのであるとの、危機意識である。


勿論、今、現在も、その心を持って、対処する者もいる。

いつの時代も、今、この危機感を持つことが出来る。


日本国の当世は、悪国か破法の国かとしるべし。

立正安国論


日蓮にとって、五戒などは、二の次なのである。

法然、親鸞のように、破戒無戒の人、という嘆きや、道元のように、厳しい戒律を課せということもない。


根本は、何が、正法であり、何が、本尊であるかという、問いである。

それが、法華経であるとの、信念である。


本尊に迷うことは、その信仰は、すべて邪悪と判定した。

恐るべき、蒙昧であると、私は思う。

だが、これは、当時の日蓮の、危機感であることで、納得する。


更に、日蓮は、正法を誹謗することが、最大の罪であるとしたことである。


それは、法華経に書かれていることだ。


別エッセイ、神仏は妄想である、に、そのことを詳しく書いている。


彼の抱いた危機感は、当時の宗教界全体にむけられたものであって、あたかも法然がその宗教改革への道において、六百年の伝統をもつ既成宗団のすべてに根本的な疑いをもち失望したのに似ている。しかも今度は、日蓮は直接的には法然の「選択本願念仏集」を最大の法敵とみなしたのである。それがいかに大きな害毒を流したかを、「立正安国論」のなかで口をきわめて力説している。

亀井


法然だけではない、奈良六宗派、真言、禅なども、一切を攻撃しているのである。


唯一、認めたのは、法華経の意味を高く評価した、最澄、伝教大師のみである。


日蓮は、仏教、仏法というものを、ただ、法華経により、見出した。

つまり、日蓮は、気の毒だが、仏法というものを、知らなかったのである。


だから、とんでもない、妄想をまき散らした。

東の仏法が、西のインドへ還ると言ったのである。


つまり、日蓮の信者は、仏法、仏陀の教えではなく、日蓮の教えが、仏の教えと、今も、勘違いしている状況である。


日蓮宗とは、新しい宗教なのである。

それが、鎌倉時代によって、新興宗教の仏教として、捉えられた。


浄土宗は、釈迦の分身の阿弥陀仏を有縁の仏とおもひて、教主を捨てたり。禅宗は、下賤の者、一分の徳有りて父母を下ぐるがごとし。仏をさげ、経を下す、これ皆、本尊に迷へり。

開目抄


これでは、仏陀の教えまで、否定することになると、知らないのである。


日蓮は日本国の棟梁なり。予を失ふは日本国の柱を倒すなり。・・・

建長寺、福寿寺、極楽寺、大仏、長谷寺等の一切の念仏者、禅僧等が寺塔をば焼き払ひて、彼らが頸を由比の浜にて切らずば、日本国をほろぶべし。


上記のような、狂った言いぐさは、日蓮以外に、言う者は、なかった。


これでは、日蓮が、仏法を知る者とは、とうてい思えないのである。

頸を斬れ・・・とは・・・


狂信独善の人のようにみえる背後に、実は日蓮の信仰の秘密がある。

亀井


確かに、秘密がなければ、ただ、狂いの人である。

亀井の分析に、耳を傾けることにする。


法華経信仰は、何によって身証されるかという問題である。彼の信仰は折伏というかたちであらわれるが、それは同時に、受難をもたらすものでなければならなかった。

法華経の身証とは受難である。これが日蓮の信仰の真の秘密である。

亀井 改行は私


つまり、法華経に書かれたことを、そのまま、実行したということである。

それは、法華経を熟読すれば、良く解る。


そして、その受難に対しての、日蓮は、とても、プラスイメージで捉えるのである。


一種の精神病者の形相になる。

とても、通常の感覚では、理解出来ない。


そして、また、理解しては、いけないのである。

信仰とは、そういうものである。


信仰が、深ければ、深いほど、固ければ、固いほど、人間は、偏狭になる。

つまり、自由を失われるのである。


鎌倉仏教とは、日本史上、稀に見る、精神の改革であると言える。

それは、鎌倉仏教の始祖たちが、皆々、とことんに、突き詰めた精神の、有様であると、言える。


仏法は時に依るべし。日蓮が流罪は今生の小苦なれば、なげかしからず。後生には大楽をうくべければ、大に悦ばし。

開目抄


これが法華経の行者としての日蓮の真の姿である。

亀井


法華経を、正法だと信じた、日蓮である。

信じる者は、騙されるが、また、強い者である。