国を愛して何が悪い212

さて、鎌倉仏教の始祖たち、そして、信徒たちは、南都北嶺の旧仏教宗派により、当然、異端として迫害され、或いは流刑に処した。


法然門下のように、死罪に処せられた者もいる。

更に、始祖たちの死後に、その墓が破壊されるなどの、迫害が長く続いた。


しかし、旧仏教の内部にも、改革の動きはあった。


新仏教の影響力はつよく、祖師たちの教えは次第に普及して行ったが、逆に滅びゆく側として、王朝の伝統と旧仏教の秩序内に在って、しかも末法の世と信仰の堕落を自覚したとき、そこにはどういう心の激しさが生じたか。代表として高山寺の明恵をあげなければなるまい。

亀井


明恵は、法然を厳しく非難した。

彼は、東大寺で受戒し、華厳の復興を志した。

建永元年、1206年、後鳥羽院の院宣により、栂尾を与えられ、ここに高山寺を建立した。


法然一門の念仏者たちの勢いを、常に感じていたはずである。

そして、南都北嶺の仏法も、堕落していると、自覚していたことである。


明恵の場合は、旧仏教に属していたとはいえ、一時はインドにまで出かけようとしたほどの、熱烈な求道心と、戒律の厳守、長い精神遍歴によって、磨き上げられた風格は、新仏教の祖師たちと並べても、遜色ないほどである。


全く異なる環境と信仰にもかかわらず、法然以下の宗教改革における信仰体験に、本質上、密着しているからである。明恵は一生不犯の人であった。独身のままに修行して清浄な生涯を送った人だが、その告白が右の通りである。心の中の妄想の嵐と格闘したのだ。やはり一生不犯の法然が、心の中の煩悩を凝視したように。

亀井


しかし、その克服のための方向は、法然とは全く反対である。


厳しい戒律を課し、高山寺の山奥で、絶えず坐禅を続けた。


遺訓にあるように、

心のあかは煩悩の巣であったのだ。戒律の厳守を志し、工夫に工夫をかさねた果てに、「あるべきやう」という自然の境地に達したのである。親鸞と同時代人だが、晩年の親鸞ならば「自然法爾」と言ったところである。道元が正法眼蔵の第一章「弁道話」を草したのは、明恵の歿した前年に当たる。道元ならば「心身脱落」と称したであろう。

亀井


当時に鎌倉時代に生き残った「王朝の人」としての、風雅を身に付けしていた。信仰における多面性と、あわせて洗練された芸術的感覚の持ち主であった。しかもそれをすら煩いとしたのだ。院政と旧仏教の秩序内で、彼ほど激しく修行した人はなく、また孤独であった人はあるまい。

亀井


勿論、明恵以外にも、旧仏教内にあって、その堕落を自覚し、様々な行為をもって、生きた僧たちもいた。


例えば、忍性という僧侶は、日蓮により、散々に罵倒されたが、彼の行為は、87歳で没するまで、189箇所に橋を架け、道を作ること、71箇所、井戸を掘ること、33箇所、浴室、病院、非人所等も、設けたのである。


私から見れば、日蓮の教えより、忍性に行為を認めたい。


更に、ライ病、非人の救済のために奉仕した、無名の僧たちたがいたことも、付け加えておく。


同時に次のことも忘れてはなるまい。新仏教の祖師たちの深い思索と信仰の身証があり、また旧仏教内にも改革の動きがあったことは確かだが、そのために南都北嶺の権威は微妙だにしなかったということである。

亀井


つまり、それは、大地主として強大な組織力を持ち、僧兵を養っていたことのみならず、密教、浄土教をはじめ、伽藍をめぐる雑修、加持祈祷、儀式等は、依然として、盛んに行われていたのである。


鎌倉仏教を、日本史の中で、位置付けるとすると、それは、信仰の純化だと言える。


その最も純粋で徹したすがたが、鎌倉仏教の祖師たちによってはっきりと示された。日本の全仏教史だけではなく、精神史全体からみても、空前あるいは絶後と言っていいほどの精神的大事件だったのである。

亀井


そして、もう一つの、重要な問題は、信仰の純化を巡り、造型美が否定された。と共に、芸術一般、特に、文学の全面否定も、避けられなかったということである。


宗教と文学との関係については、九世紀の空海以来、古代人も中世人も思い悩んできたところである。私は西行、長明、俊成、定家等を語る時もこの点にふれてきたが、鎌倉仏教の祖師たちに至って、文学から離脱してしまった。むろん数寄をも捨てた。

亀井


そこが、実に面白いのである。

鎌倉仏教の祖師は、皆、文を成した。


更に、その弟子たちもである。

そして、それらが、今は、文学的に非常に、敬意を受けている。


道元などの文は、名文であり、親鸞の弟子、唯円の歎異抄もまた、名文である。文学として、実に価値の高いものだと、私は言う。

日蓮における、文も、そうである。


だが、道元などは、意識的に、積極的に、文学を捨て去ろうとした。


文章詞歌等その詮なきなり。捨つべき道理左右に及ばす

道元


更に、親鸞も、多くの文を成したが、文に工夫を凝らすということはなかった。


それらは、あくまでも、信仰のゆえの、文であり、文学という意識は皆無である。

それが、今では、名文の数々である。

実に、皮肉なものだ。


その当時の祖師たちの文を真似て書いても、詮無いことである。

だが、日本の文学史上の中なかでも、輝きを放つ。


万葉集から、溢れるほどの和歌集、源氏物語、その他の物語、そして、鎌倉仏教の祖師たちの文と、日本は、文学の宝庫といえる。


私は、この日本の精神史は、文学に支えられてあると、見ている。

和歌の一首を表現するために、様々な芸術が生まれたのである。

矢張り、はじめに、言葉があったのである。