国を愛して何が悪い213

鎌倉仏教の祖師たちを脅かしたのは、様々な煩悩だけではない。推古朝以来、すでに七百年の伝統をもつ仏教が、末法の世を迎えたという絶望と、同時に深い徒労感に襲われたにちがいない。一体何のために、仏教にかくも心を労してきたのか。

亀井


同じ時代に、仏教を否定する者が現れても、おかしくないのである。

日本独自の、無神論が現れても、然るべき時代だったはずだ。


ところが、真っ向から、否定をする者は、いなかった。


もしこの時代に信仰を疑い、否定に傾いたとすれば、そのあらわれは虚無か、、快楽か、犯罪かち、乃至は諷刺をこめた揶揄か、笑いか、そういうところへ辿り着いたと言ってよかろう。否定というかたちをとらずに、ひそかに忍びよってくる否定の魔力あるいは魅力というものがある。

亀井


それは、今昔物語、梁塵秘抄、宇治拾遺物語など、祖師たちと同じ時代に、伝承されてきたことが、面白い。


その中には、教訓的な出家往生譚、法文歌も多いが、殺人強盗、色好みの無頼漢が、信仰のかけらもないもののように、傍若無人に振舞っている。


また、高徳の聖の物語、真面目な念仏の歌と共に、途方もない犯罪、信仰冒涜の説話が記される。


それは、祖師たちの、信仰が次第に民衆化されるとともに、これらの放逸な説話も、広く伝えられたのである。


これは、一種の息抜きの様子である。

別名は、洒落、ギャグ、ユーモラスである。


もとどりをゆひわげて、をかしげなる姿にて、筵をいたしきて、すずみいはべりて、大いなる打輪をもてあふがせなどして、往生の者、上下をしはず、よびあつめ、昔物語をせさせて、我は内にそひふして、かたるにしたがひて、おほきなる草子に書かれけり。

宇治拾遺物語


この物語の作者が誰であったかはどうでもいいことだ。私が興味をもつのは、ここに描かれるようなタイプである。「変り者」「世のすねもの」と言った風格が浮かび上がってくるようである。乱世の傍観者と言っていいのではなかろうか。

亀井


真面目な信仰の話、猥談、殺人、世相人情のすべてに好奇心を持ち、それを筆にすることで、ひそかに喜び、皮肉な笑いを洩らしていた。


ここに、時代の余裕があると、私は言う。

信仰の純化という、鎌倉仏教の祖師たちとは違う種類の人たちも、また、存在していたのである。


その内容についての、仔細は、省略する。


一つだけ、今様を取り上げる。


聖をたてじはや。袈裟を掛けじはや。数珠を持たじはや。歳の若きをり戯れせん。

恋ひ恋ひて邂逅に逢ひて寝たる世の夢は如何見る。急く急くきしと抱くとこそ見れ。

美女うち見れば、人本葛にもなりなばやとぞ思ふ。本より末までよらればや。切るとも刻むとも、離れ難きはわが宿世。


まさに、始祖たちの信仰から見れば、罪である。


一見つまらぬこんな小噺や今様から、信仰の崩れてゆくことは常にありうるのである。妄想を刺激する誘惑の種子だからだ。色好みの世界の強烈な牽引力は言うまでもない。信仰の純化にとってはこの魅力こそいうまでもなく罪である。

亀井


罪の意識は、仏教伝来から、強烈に始まったと言える。

この罪悪感というものは、宗教の最大の、妄想である。


もし、その宗教の教える罪なるものがあるならば、人間は、全く罪の中に生きる者となる。


人間の、生の讃歌を否定する。それは、性というものも、否定する。

現在は、別だが、当時の僧侶、出家者たちは、その性を否定した。


性を欲望とのみ、捉えた。

それは、仏教伝来以前の日本の精神史には、無いものである。


万葉の時代の、放埓な性の営みを、否定して、仏教は成り立つ。

つまりそれは、不自然極まりないものである。


しかし、時代性である。

時代精神である。


乱世にあって、そして、仏教の思想にあって、人が真剣に、人生、人間というものの、姿を考え抜いたとも、言える。


だからこそ、鎌倉仏教の起こりは、空前絶後の日本の精神史の、出来事と言うのである。


西洋の思想を学ぶ者たちは、日本に思想がないという、偏狭さを持つが、鎌倉仏教の祖師たちは、思想家であったと、私は言う。


西洋が、神に対決する思想であれば、鎌倉仏教の始祖たちは、仏に対決する思想であった。


そして、文学、造型美等の、芸術を否定しつつ、彼らの文は、まことに文学的である。また、思想である。


思想という、思想がないほど、思想家であった。


さて、続いて、信仰の純化を求めた、祖師たちと、洒落、色好みの世界という、極端を嫌い、別な角度で、世の中を見まわしていた、吉田兼好という、曖昧な文、徒然草、というものを見る。


その、不徹底さにも、時代性がある。

更に、それが、現代でも、読むに堪え得る文であること。


どちらにも属せず、属さず、淡々として、世の中の有様を、書き続けた文である。


如何様にでも、解釈して読めるという、特徴がある。

この、不徹底さが、この世を生きる術として、理解することも出来るのである。


矢張り、日本の精神史の中では、見逃すことは出来ない。


簡単に言えば、肩が凝らないのである。