北海道地震・・・
全道で、停電とは・・・
地元なので、驚く。
しかし、科学的予想と、占いの、予想が、同じ程度である。
太平洋側に、地震が来る・・・何度も、言うが・・・
熊本、大阪、そして、北海道とは・・・
呆れる。
一体、いつになったら、太平洋側、東海地震や、東京直下型が来るのか・・・
益々、呆れる。
これでは、占い師を馬鹿に出来ない。
いや、占い師の方が、当たる確率が高いのである。
予知、予想、予言とは、当たらないものが多い。
実に、多いが、一つ当たると、当たると、言われる。
だから、占い師に、騙されるのだが・・・
科学的に、根拠があるのか・・・
無い。
あると、信じているだけである。
勿論、今の段階での、根拠は、あるのだろうが、自然に関しては、無理。
予想外、想定外の、災害が目白押しである。
つまり、完全に分かっていることは、少ないのである。
だから、信じる者は、騙される。
更に、台風である。
その進路も、変更出来ないのである。
私が笑うのは、祈る人々の多いこと。
しかし、台風の進路変更も、消滅も出来ない。
だから、信仰とは、嘘である。
聖書作家が、イエスの言葉として、書いた。
一粒の信仰があれば、山をも動かす、と。
嘘である。
信仰があっても、台風の進路も、変えられない。
実に、馬鹿馬鹿しい。
それでは、日本の古代の人たちは、どうしたのか・・・
心を反省して、瞑目、瞑想に近いことをした。
更に、天皇は、自然災害に、我が身の不徳の致すところと、謹慎蟄居した。
実際、自然災害には、無力である。
ただし、備えは、必要。
だから、災害の多くの犠牲は、人災ともいえる。
そこで、政府を批判する人たちが、大きな声を上げるが・・・
勿論、本人たちは、何もしない。
政府が・・・政府が・・・と、ただ、批判するのみ。
更に、マスコミも、人災とは、言わない。
よくよく、その犠牲者の状況を考えると、実に、人災が多いと、気付く。
もし、ああしていれば・・・という思いが湧く。
つまり、国の防備である。
防衛と同じように、考える事だ。
そのために、金を使う。
馬鹿な政党が、コンクリートから人へ、などと、言ったが、大間違い。
コンクリートで、防備するのである。
その、防災意識が、政府ではなく、国民に欠けているといえる。
危険だから、ここを、このようにせよ、と言わない。
自分だけは、大丈夫と思う、心の愚かさ。
勿論、私は、いつ死んでもいいので、台風でも、地震でも、平気である。
犠牲とは、死ぬことである。
生きるに意味などないので、生きる必要はないから、私は、死ぬ。
だから、自然災害は、怖くない。
さて、科学者の馬鹿なことろは、事後予言をすること。
つまり、解説である。
終わった後の解説ならば、隣の爺さんでもする。
私も、する。
呆れる。
いかに、予想、予言することが、難しいのかということである。
台風、地震は、確実に来るのである。
いつ、来ても、おかしくない。
それが、常識である。
常識とは、哲学の問題ではない。
今、現実の問題が、常識である。
自然災害は、確実に、起きるということ。
それを踏まえて、備えること、それも、常識である。
更に、死ぬことを怖れないのであれば、備える必要はない。
死ぬのだから・・・問題がない。
死にたくなければ、備える事だ。
ただし、盛者必衰の理を知るべし。
人は、生まれると、死ぬ。
別エッセイ、生きるに意味などない、死ぬ義務、を参照のこと。