神仏は妄想である538

ブッダは葬儀の無効性を宣言した。しかし仏教徒たちはそのブッダの遺言を裏切った。むろんそれは、ブッダをたんに否定するために裏切ったことを意味するのではない。ブッダの遺言にもかかわらず、弱い人間の悲嘆と苦しみのなかで裏切ったのである。そのことによって仏教は、宗教として発展するための基礎をつくった。ブッダが死んで仏教が蘇ったのである。そこにいわばアーナンダの徒がブッダを裏切った歴史の必然があった。

山折


山折氏は、あくまでも、現在の僧侶たちを、励ますために、厳しいことを書くが・・・

その後に、これからの僧侶の生き方を説く。


しかし、私は言う。

最初から、仏教は、仏陀の教えを守ることなく、始まった宗教であるということだ。


だから、もし、仏陀を仏というならば、その仏法というものは、皆無である。


仏陀の教えが無い、仏教ということになる。

だから、早々と、店じまいした方が、身のためである。


これ以上、人々を迷いの道に入れれてはならない。

特に、仏教の新興宗教系は、即座に、店じまいである。


単なる、商売の宗教と化しているのである。

人が集えば、金になる。


教祖・・・という、馬鹿者に、帰依させるという、仰天である。

更に、仏教の教えで、人を救うという、傲慢。


仏教の教えも、人の妄想であり、救いも、妄想である。


勿論、人生には、在ると仮定して、考える方法もある。

だが、それは、あくまでも、仮定である。


そして、人生とは、ただ、仮定にしかないものである。


何もかも、仮定なのである。

これが、解れば、悟る。

悟りとは、そういうことである。


何一つ、真実などは、無い。

すべてが、仮定で成り立つのが、人生である。


さて、山折氏の、論説を簡略に紹介する。


仏教の人生観は、生老病死、である。

この中で、唯一、喜ばれるのは、生まれる、ことである。

その他の、老、病、死は、苦しみである。


人生50年の時代ならば、それなりに、その苦しみを生きたが、現代では、人生100年と言われる程、長生きになった。

ただし、管になって、生きる人の寿命も入れているから、まあ、80年程度である。


つまり、30年も、無益に生きなければならないし、また、生きようとしている馬鹿者である。


その無益な、30年は、老、病、死を生きるのである。

そんな時期に、僧侶たちは、今までの、無益な生き方を通して、何か社会に役に立つというのが、山折氏である。


私にすると、冗談ではないが・・・


それは、アーナンダの徒にとっては絶好の時代ではないか。というのも、脱労働、入自然のライフステージにさしかかった人々の大多数は、いまだその刈り取りと成熟の人生をどう生きていったらよいのか、その処方箋がまだできあがっていない。したがっていまこそアーナンダの徒は、そのモデルをかれらにむかってさし示すことができるからである。専門人から自然人へと歩をすすめてきた人々にむかって、自然人の生き方をさし示すことができるからである。

山折


この本は、1993年の出版である。

山折氏の、論説は、もう、無効である。


無理である。

アーナンダの徒、つまり、僧侶たちは、そんなことも、出来ない。いや、出来なくなっている。


彼らが、自然人・・・

全く、違う。


自然人ならば、もう、尊敬を受けている。

自然人どころか、現代の最先端の遊びに、うつつを抜かしている。


山折氏の、考えが甘いのである。


それはかれらの精神的基盤が、そもそも自然人的な生活感覚のなかにおかれていたからである。かれらはそのような自然人的な生活感覚をただひたすらなぞって、今日まて生きてきたのではなかったのか。

庭をもつ寺に住み、樹木のお借りと野鳥の声に接し、頭を丸めたり読経をしたり、ときに意味のよくわからぬ説法を繰り返してきた。なかには遊興にうつつをぬかすものもいたであろう。金銭崇拝の亡者になり観光事業に狂奔するものもいたであろう。・・・

社会の冷たい視線に耐え何ほどか良心の痛みを感じつつ、半ば自然人的で自由な生き方に恵まれてきた。そういう半ば特権的ともいうべき境遇のなかで、世俗的な仕事にも少しばかり手をだして飢えをしのいできた。

山折 改行、省略は私


これは、評価のし過ぎである。


仏教には本来、社会的役割などというものはなかったということを想起しよう。「社会」に対して世俗的に貢献することがすなわち仏教の使命であると考えたのが、そもそもの間違いだった。

山折


奈良仏教から、平安仏教、そして、鎌倉仏教と、何の役にも立たなかった。


日本の精神史としては、鎌倉仏教は、最大の精神革命と言えるが、それは、仏教というより、伽藍仏教の否定と、万人に仏の教えをという、開祖たちの、思いである。


だが、それも、元の木阿弥である。

どうだろうか・・・


鎌倉仏教の開祖の、意志を継いでいる、宗派はあるのか・・・

浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗・・・その他


皆々、堕落の一途である。

大伽藍仏教と化して、宗教ではなく、商売と化している。

何せ、葬式、戒名、そして、時々の先祖供養で、信徒から、取れるだけ、金を取るのである。


ちなみに、霊学から言う。

読経の音霊は、正しい霊界の嫌うところである。

濁音が多く、雑音なのである。


あちらの世界は、清音の世界てある。

だから、読経の葬式は、幽界に通じるのみである。


仏教の供養とは、ただ、霊位を、別の場所に移すだけである。

人間は、成仏しないのである。

霊界に生まれるのである。