神仏は妄想である539

仏教の歴史はブッダの体験と思想を裏切ることをとおして発展してきた。・・・


誤解をおそれずにいおう。私は、そのような仏教の裏切りの歴史をいわば凝集した形で保存し伝承してきたものが今日いうところの「仏教学」であると思う。それだけではない。アーナンダの徒はいつの時代でもこの「仏教学」に身を寄せ、その知的な餌付けのままにものを考え、行動してきた。

山折


その通りである。


そして、その仏教学の萌芽は、ブッダ死後の正法の時代からあらわれた。ブッダの威光にかげりをみせる像法の時代になると、仏教学の勢力はますます拡大し、アーナンダの徒はその影響下にあたかも当時の新興哲学にも似た言説をくりだすようになる。そしてブッダの存在感がますます希薄になった末法の時代になると、仏教学はかえっていっそう盛んになっていく。しかしその中身はといえば、ブッダ生前の迫力とは打って変わった、まったく血の気の失せた言葉をただオウム返しに繰り返すだけの観念の遊戯に堕してしまった。

山折


とても、簡単にまとめている。

その通りである。


つまり、仏教学とは、仏陀に遠のく、学問になっていったのである。

呆れる。


勿論、キリスト教神学というものも、その通りである。


そこで、仏教学は、偏狭な大学の場で、偏狭極まりない、先生によって、講義される。

それを受けた人たちが、何と、僧侶になるという、仰天である。


そして何年間かの所定コースを終えて社会に送り出されるころには、全身その「仏教学」の色に染まっている。仏教学の観念遊戯の教室でブロイラー教育をうけて卒業し、生老病死の現場に送り出される。ところが現実の光景は、大学で教えられたのとは似ても似つかぬ猥雑な喧騒にみたされている。

山折


更に、彼らは、仏教学が教える、仏教の観念が、いかに、虚偽、幻想であるかということを、嫌と言うほど、知らされる。

そして、堕落する。


一般の人たちより、堕落の一途である。

何故か・・・


まともな仕事ではないから、優雅に遊ぶ。

金に飽かせて、遊ぶ。

更に、遊びを、僧侶の仕事と勘違いする。


ある、仏教系の大学に通う、学生に聞いた。

寺の息子たちが、来ているが、呆れると・・・


例えば、読経するための、部活では、線香の香合に、タバコの灰を入れて、平然としている。

あれらが、寺の住職になれば、その信者が哀れだと言った。


勿論、真面目に学ぶ学生、僧侶の息子もいるだろうが・・・

何せ、観念遊戯のお勉強である。

まともになる訳が無い。


山折氏は、どうしてそういうことになったのかと、追及している。


その一つに、仏陀の言説を収録した、最も古い経典で「スッタニパータ」というテキストがある。

スッタは、縦糸、ニパータは、集成である。

つまり、仏陀の言葉である。


この経典には、古い層と、新しい層が、入り混じる。

そこで、その経典に書かれていることは、仏陀が様々なテーマについて、語るものである。


まず初めに、すべての欲望と執着を捨て去れという、教えである。


また、一切の苦悩を離れるためには、物事を正しく観察しなければならない。

その観察には、二種類ある。


第一は、苦と苦の原因についての、正しい観察である。

第二が、苦の消滅と、そこに至る道についての、正しい観察である。

一般に、四諦といわれる、真理のことである。


苦・集・滅・道の四つの心理を悟れ、ということになる。


次に、無明と輪廻に関する教えである。

われわれの生存は迷いの中にある。その迷いの根本が、無明ということ。この無明によって、輪廻を繰り返す。だから、無明に規定された、根本の迷いから、離脱するために、四諦の真理を正しく知る必要がある。


物事が、どのようにして、生じるのか、その原理を知るということだ。

縁起の、理を知るともいう。


更に、仏陀は、自我に関することに、固執することをやめ、世界を「空」と観察せよという。


まだいろいろあるが・・・

要するに、そのような教えがあるということである。

問題は、そのような教えに、近づくために、どうすればよいのか、ということだ。


執着を去れ、と言うものの、どうしたら、一切の執着を捨て去ることが出来るのか、という疑問である。


更に、正しい観察とは、何か、である。


それらに関しては、全く、答えが無い。

無明と輪廻の相関の問題にしても、縁起、空のテーマについても、同じく、解らないのである。


それらに関しては、一切語られていないのである。

だから、その後の、人たちが、妄想全開を繰り広げたのである。

それが、仏教学として、現代に至る。


つまり、単なる、屁理屈に堕すという。

幻想、妄想の世界の出来事のようである。


インドの仏教徒、特に、それらの研究家、僧侶たちであるが、侃々諤々の議論をはじめた。

その議論が、後世に残り、何々派であるとか、何々論とか、やっている。


インド人の、屁理屈の世界を、仏教と勘違いした、日本、いや、中国をはじめとした、仏教の教えである。

何せ、日本の仏教の大本は、中国仏教である。

そこから、発した、仏教を、仏の教えとして、受け継いだ、悲劇である。