生きるに意味などない132

ここで想起されるのは、古典的ではあってもベルグソンの「意識に直接与えられたもの」においての方法である。

ベルグソンは常にくり返し、ひとは言葉に対して身を守らねばならないことを強調した。言葉は、それが発したところの「生きられた根源」から切り離されて、論証的な思考の単なる道具に容易になり易く、従って直接に体験されたものを表現することができなくなってしまうまである。

また更に言葉は、それが使われる時にしだいに色褪せ、そして終に言葉以上の何ものでもない言葉になってしまうのである。

霜山 改行は私


これが、西洋式の、言葉の世界である。

いかに、日本と違うか、である。


日本の精神は、言挙げせず、という精神で成り立つ。

言葉にせずに、どうするのか・・・

それは、所作、行動に託すのである。


神道系の所作は、言挙げせずに従い、所作にして、伝えた。

その所作を見て、キリスト教徒は、単なる、儀式であると、判定する。

彼らが、儀式の中で、それ以外に、見えないということを、告白している。


ところが、日本の場合は、その所作に、深い思いが託される。


だから、短い言葉の世界で、足りる。

説明しないのである。


これが、日本人が、国際化するという場合に、マイナスなことは、もう、幾年も続けて言われている。

更に、日本人の、曖昧さ、である。

それも、言葉に明確にせずにいることから、誤解を生む。


だが、逆に、海外の人が、日本を理解する場合は、日本語を学ぶことで、多くを知ることができる。

今は、海外の人に、日本語を学ぶべきことを、知らせる時代である。


日本語、そして大和言葉により、日本の精神を知る。

言葉は、精神である。


いわゆる言語化は、単なる言語的説明と同様に、その証拠であるように思われる。すなわち、あまりにも、よどみのない、人口に咀嚼した言葉は容易に何もいわないものになってしまうのである。それは自明ではあるが、まさにこの目的なことこそもはや何らのあるきまったものを表現していないのである。

霜山


驚くべき、見解である。

言葉の威力が違う。

西洋思想の言葉の世界は、限界に達しているのである。

もう、そうなって、久しいが・・・


だから、最近になり、ようやく、西洋哲学の中で、この世は、幻想である、という思想が、現れた。


これは、日本の、無、という考え方に近いと思われる。


だが、まだ話は続く。


従って常に体験されたものに立ち帰って、それに思いをいたすことが必要になってくるのである。しかしベルグソン自身も彼の天才的な直感を表現し、われわれが彼と共にそれをもう一度体験するのを可能にするのに言葉以外の他の手段をつかったわけではなかった。

ここにひらかれたのは言葉の「生の意味論」の問題であり、言葉がその生きられた体感を通して表現されることの可能性を問うことである。

霜山


まだまだ諦めずに、言葉の力を問う、そして、しまいに、生の意味論の問題となる。


すると、

例えばここで重要になるのは、比喩の世界である。それは象徴の世界とよく混同されるが全くことなるものである。

霜山


苦し紛れに、聞こえるのは、不遜なのか・・・


神話は、すべて、比喩である。

その方法しかなかったのが、神話である。


奇想天外な、お話し。

ユングは、そこから、精神病者の治療法を、探した。


比喩は象徴とちがって主観的な解釈に対する余地を殆ど与えないし、われわれに対して、身近にかつ直接に、言葉自身によって刻印される体験を現すものである。

霜山


比喩はだれかある詩人の空想から生じたのではなくて、われわれすべての人間のこころの故郷から、つまり「ことば」から湧き上がってきたのである。

ビンスワンガー


われわれは事実、比喩においてことばの非疎通性を感じないのである。

霜山


突き詰めて、考えると、このような世界に出る。

そして、言葉が、それ自身として、語り掛ける、という、結論に達する。


それが、体感を通して、生きられた意味、を伝えている、となる。


そこで、不安という問題も、例えばある不安傾向テストによる不安尺度の数量的表現というような研究の方向ではなくて、不安という言葉の体感的な「生の意味論」を追って、その現象学的特性を捉えることも重要になってくるのである。

霜山


精神病理学とは、こういうことを、学ぶ世界である。


生の意味論・・・

それは、本当は、影なのであるが・・・


何とか、必死に、生きようとする、人間の性である。

意味を見出す行為を、別名、生きる、という。


つまり、生きるとは、意味を見出す行為なのである。

それが、今までの、膨大な思想、哲学の根拠だった。


それでは、意味は、無、であると、言うと・・・

皆々が、躓く。


手の付けようがない。

だから、私が書いている。


様々な概念を生み出し、そして、また、新たに、概念を試みて・・・

延々と終わらない、意味の追求に、人間は、疲れた様子である。


そして、ようやく、この世は、虚仮と見抜いた、東洋の思想、あるいは、日本の思想に、いや、哲学でも、なんでもない、言の葉の日本の精神を、学ぶべき時が来た。


ちなみに、日本では、言の葉の、言に神を見た民族である。

そして、言と、事は、同じだった。

それが、言霊である。