生きるに意味などない133

人間は、生きているだけでも、意味がある。


まだまだ、教育学の意味論について、引用しなければならないが・・・

引用も、疲れる。


少しばかり、私の言葉で、書く。


20年ほど前になる。

父親が、喉頭がんになり、入院し、手術についての話を、医者とすることにした。


医者と話して、私が、父に、喉頭がんであると、伝えると言うと、医者が、慌てて、私が言いますと、言う。


きっと、私が結果を言って、父が、動揺すると、思ったのであろう。


まあ、それはそれとして・・・


私は、医者の後に、父と話した。

ガンなので、覚悟すること。


病室は、皆、ガン患者たちである。


私は、父に、もうそろそろ、死んでもいいよ、生きていることはないと、言った。そして、これからの世の中は、益々、悪くなるから、生きていても、詮無いことを言った。


父も、その病室の人たちも、驚いた様子である。


息子が、父に、死んでもいいとは・・・


父は、子供の頃から、漁師をやり、40歳前後から、頼まれて、酒屋を買うことになり、その以後は、酒屋の主人として、生きていた。

子どもたちのために、酒屋をするとの、心意気だったようだが。


もう、十分に生きたのである。

後は、余生となる。


余生は、そんなに長くなくてもいい。

少しばかり、生きて、さっと、死ぬのがいい。


ところが、父は、私の言葉に、奮起したのか、その後、二度の手術を受け、そして、10年ほど生きた。


私は、父の葬儀に出なかった。

その時は、タイに出掛けて、戦没者の追悼慰霊と、支援活動をしていた。

父の死ぬのを待つと、行動が出来なかった。


そろそろと、危ないと思ったが、私は活動を優先させた。


何せ、人は、死ぬと、忘れられる。更に、50年も経ると、誰も知らない存在になる。


瞬時のような、人生である。

何処に、意味があるのか・・・


その瞬時は、無、としか、言いようがない。

大和言葉にすると、あはれ、である。


もののあはれ、は、日本人の心象風景である。


無の思想は、仏教でも、老荘思想からでも、無い。

日本に古来からあった、考え方である。


だから、死ぬと、自然に帰る、それを隠れる、と言った。


人が死ぬと、自然に隠れるのである。

それを、崩、かむあがり、と言う。


つまり、カムになる。

現代語で書けば、神になる。


それで、何々の、命、みこと、と読んで、崇敬した。

先祖崇敬の国、日本である。


日本の神意識は、祖霊のことを言う。


唯一絶対の神という、存在は無い。


自然とは、無の世界である。


自然は、もののあはれ、を、映す。


そして、人間が死んだ後は、自然が、また、野となり、山となり、流れて行く。

人間が死んだ後は、後は、野なれ、山となれ、なのである。


それ以上の意味は、無い。

ある訳が無い。


夢とおき 夢と消えぬる 人の世や 浪花のことは 夢のまた夢

秀吉の歌詠みである。


天下人となった、秀吉も、知っていたのである。


つまり、人生は、夢、幻、幻想、妄想の内にあると。


それでは、最初から、それを自覚し、得心して生きることである。

余計な理屈を持って、意味を求めると、誤る。

つまり、勘違いする。


私がいても、いなくても、この世は、何の変わりもない。

いても、いなくてもいい、存在が、意味があるとは、戯言である。


私の弟子が、乳がんになり、夜に病院から電話をくれた。

辛いと、言う。


私は言った。

どうせ、死ぬから、大丈夫だと。


慰められると思った弟子は、私の言葉に驚いた。


今、死しなくても、確実に死ぬから、大丈夫と聞いて、弟子は、私を、何と薄情な人と思ったらしい。

が、突然、弟子は、生きると、決めたらしい。


それから、20年ほど生きて、死んだ。

ほら、結局、死ぬ。


10年20年、長くいきたからと言って、何だと言うのだ。

実に、馬鹿馬鹿しいかぎりの、人生である。