生きるに意味などない134

さて、ここから少しばかり、西洋の思想哲学のあり方と、日本の、物の考え方について書く。


別に、作為はない。

ただ、流れる私の心のままに、エッセイを書く。


「人間の問い」の問い方がロゴスによる問い方に限られるとしたら、あるいはその他の問い方が可能であるとしても、ロゴスによる問い方がもっともすぐれているのだとしたら、日本人の生き方はまことに不まじめであるか、未熟であると言われてもしかたがない。事実、日本人がロゴス的な思考力に乏しいとか、キリスト教的な意味における宗教心に欠けているとか、現実社会の改良や社会道徳の確立に熱意がないとか批評されるのは、それぞれ理由のあることである。それらの批評は甘んじて受けて、深く反省しなければならない。

「無常」の構造 磯部忠正


簡単に言えば、日本人は、言挙げしないという、伝統があるということ。逆に、西洋は、ロゴス、言葉に対して、徹底した、説を立てるということ。


更に、キリスト教的な意味における、宗教心に欠けるとは、明らかに、おめでたいのである。

一神教の信仰に対するような、信仰形態は、日本人には、必要ないのである。


更に、確実に、神、というものの、観念がまるで、違う。

全くの別物なのである。


日本には、ユダヤ、キリスト、イスラム教の神観念は、全く、役立たずである。


更に、簡単に言う。

日本の神は、自然であり、自然とは、無、の姿なのである。


だから、日本の神観念は、無、なのである。


一時期、カトリック作家の、沈黙という小説が読まれて、日本には神不在の云々という謳い文句があったが、あまりにも、馬鹿馬鹿しくて、取り扱えなかった。


西洋の、観念まみれの、宗教というものを、日本人は、受け入れられないのである。

だから、日本人の、一神教信者は、いつも、同じパーセンテージである。人口の、およそ三パーセント程度で、推移している。


磯部氏の、論説を簡略して書く。


しかし、もし、その批評が、反省の結果、日本人が西洋人のような、考え方と信仰、そして、西洋人のような道徳意識を持たなければならないという意味だとすると、大きな見当違いである。


何人であれ、およそ人間である限りは、守らなければならない道徳、法律とかの基本については、遵守の義務があることは、当然である。


人間尊重と、信仰の自由ということは、一見文句のつけようがない基本的な遵則であるが、風土と歴史を異にする西洋と日本では、その受け取り方、評価の仕方は、意外に違うのである。


それを一直線に並べて、文化、知識の発達の段階として、解釈し、日本と西洋との差を、日本から西洋へと進歩すべき段階の差と見るのは、誤りである。


ただし、論理的、分析的思考に関して、また物質的、技術的な分野に関しては、日本人が西洋人に比して、劣勢にあり、それ点では、学ぶことが、多かったのは、事実である。


その意味では、日本が西洋を見習い、これを範としたことは、間違ってはいない。


そして、また、どちらの文化が劣勢だという、分析は誤りである。


わたしは、個人としての人間の生き方や、民族としての文化のあり方の価値は、「人間の問い」の問い方、すなわちその問いの答えを求めるしかたいかんに関わると信ずる。

磯部


つまり、日本人の「人間の問い」の問い方が、ギリシャ的でも、キリスト教的でもないということである。


ギリシャの、ロゴス的方法と、キリスト教的な、絶対者に対して、己を無として投げ出すところに成り立つ、信仰の道でもないのである。


明治期以降に、西洋に触れ、学んだ者には、日本人の生き方が、いかにも、中途半端なもの、いい加減なものに見えた。


そして、それが、敗戦に至り、今度は、アメリカを手本とする、日本人が大勢、現れた。


そして、日本と比べて、日本を裁くという、愚劣ぶりだった。


西洋では、アメリカでは・・・


しかし、日本人が「人間の問い」を問わないのではない。それをごまかして生きているのでもない。或る意味では、日本人は西洋人よりはるかに本気で、「人間の問い」を問うているのである。

磯部


西洋人は、その問いを、地上の文化創造という形にして、法律制度の完備、社会改革の遂行、理想社会実現のための闘争に、熱中するのに対して、日本人は、まともに、この問いに直面するからである。


ただし、この地上で、この浮き世で、この問いに直面することは、さきに述べたように死か狂気に終わることになる。

磯部


日本人もそれに堪えられない。堪えられないから別の途を考えたというのではなくて、むしろはじめからまったく西洋的な問い方とは別の問い方をえらんだ。

磯部


それは、日本人の先祖が、遠い昔から、湿潤の土地に定住農耕して、生活を営んできたことと、深い関わりがある。


そこでは、絶対者とか、全知全能の神を前提とする生活は、成り立たないということはなかったのである。


神と人間の、絶対的断絶もない。

古代の日本人は、神は人間の先祖であり、山河大地、草木花鳥である。

あめゆるものが、神だという意識である。


そして、死ぬと、自然に隠れるという、意識であり、それは、全く、西洋人には、考え及ばぬことである。


いよいよと、日本人の心象風景に入って来た。

別エッセイ、もののあわれについて、を参照下さい。


大胆に言うと、日本人の、死生観の大本は、生死が、一直線になっているということだ。

そこに、断絶は無い、と言う。