日々の言い分314

人を判断する手立ては、一つのみ。

ただ、その人が、何をやって来たか、である。


仕事でもなんでもいい。

何事を成してきたかと言う事に、尽きる。


言葉では、何とでも言えるのである。

その言葉を信用するのは、何を成してきたかが、問題である。


一つのことを、延々と続けた人は、信用出来る。

ただし、サラリーマンの場合は、ただ、惰性に流れている場合が、多々あり、別の事で、何事かをしてきたかを、尋ねるしかない。


更に、人を判断する、その人の、行為もある。

つまり、聖書でイエスに語らせる言葉がある。


人を裁くな、あなたも、同じように、裁かれる。という言葉。


裁く人は、その人の、裁きと、同等の裁き方で、裁かれるのである。


と、いうことで・・・

私は、人を裁かない。

ただし、好き嫌いの感情がある。


これは、皆々が持つことである。


嫌いな人を、評価するのは、大変なことであるが、その成果、業績、何を成したかは、好き、嫌いの感情とは、別である。


ある人が、犯罪を犯した。

すると、その人の、業績、成果も、蔑む人がいる。


犯罪は、犯罪で、やってきた成果、業績は別物だが、通常、人は、その犯罪の大きさで、それらを取り消す。


人間とは、情けないものである。

その程度で、生きている。


更に、知らないということ。

知らないことは、無いものである。


だから、知らないがために、大きな罪を犯す。

そして、更に、知らないことを、知らないと言う、不幸は、余りある。


そこで、私は、私を判定する。

すると、私の存在は、実に軽いものであると、気付く。

そして、人様のことを、あれこれと、言うことなど、出来ないと、感得する。


それは、私が、年を取ったからでもある。


年を取ることが、素晴らしいことだと、それで、気付く。


偏見と、差別感を持っては、何事も、まともに評価出来ない。


別エッセイに、神仏は妄想である、を書いている。

そこでは、特に仏教と、キリスト教について、その妄想について書く。

ただし、それを書くために、ただの信者より、遥かに、学ぶことが多い。


延々と、書き続けるが、それは、つまり、延々とお勉強するということである。

そうして、批判に堪え得るものを、対象にする。


つまり、批判に絶えられない程度のものは、相手に出来ないのである。


仏教は、2500年ほど続き、キリスト教は、2000年程の歴史がある。

何故、それほどに、続いて来たのか・・・


それが、最大の問題である。


幻想、妄想も、歴史を経る、つまり、歴史に洗われ、洗われて、存在している。


そこで、いかに、人間が愚かな存在であるかを、知る。

そして、更に、今も救われない人の様もを、知る。


さて、日本の神道は、建国から見ても、2700年続ている。

それ以前の歴史を、含めると、縄文期まで、辿る。


ただし、縄文期は、書き物がないので、証拠が出ない。

その証拠のでないものを、どうして、判断するか・・・


それは、最も古い証拠である、書き物から、判断する。


書かれたものがあるとは、書かれなかったものもある、とい考え方である。


私は、万葉集から、縄文、弥生を詮索する。

万葉集が成立したのは、それ以前の、人の行為があったからである。


そして、その後は、霊感である。

私は、私の霊感を信じて、騙されている。


どこにも、確信が持てない。

つまり、私以外の、研究者も、同じ穴のムジナ、ということになる。


霊感であろうが、文献研究であろうが、同じ事。

では、ある人のものが、評価を受けるのは、何故か。


簡単なことである。

権威を持つこと。

ただ、それだけである。


だから、時が経つと、権威が変わる。

ただ、それだけのことである。


今の、考え方は、私の唯一の考え方で、いいのである。

死ねば、忘れられ、捨てられる。


そういう意味では、私のような、素人は、何を書いても、詮無いことなのである。


ただし、私は、それを死ぬまで、続ける。

そうして、私が、私を信用する。


つまり、この世は、私のための、世の中である。

何一つも、すべて私のためにあるという、考えである。


太陽が昇るのも、月が出るのも、私一人のためにあるという、考え方である。


仏陀は、幼児の時に、立ち上がり、天上天下唯我独尊と言った。


そこで、私も言う。

同じく、天上天下唯我独尊である、と。