死ぬ義務14

ヘムロック死は、他人の手を借りて行われる、強制的な死であり、断食死は、自らの意志だけで行う、限りなく自然死に近い安楽死である。


上記は、山折氏と、私と、同じ見解である。


ヘムロック死と断食死とのあいだにみられるこのような相違の背景には、むろん欧米の死生観とわが国の死生観の間の相違という問題が横たわっているであろう。その死生観の相違にかんする歴史の重みが、現代における臨死の場面にも大きな影響をおとしている。

山折


価値観、人生観、自然観、宇宙観・・・

欧米の考え方の中には、ユダヤ、キリスト教という、一神教を抜きには、考えられない。


自殺を罪とするのも、唯一の神が創造した人間の命を、断つという、罪意識である。


だが、人間は、神の創造した、すべてのものの、管理者であるから、人間のすること、もしくは、白人のすることは、許されるのである。


ヘムロック協会が進める、死は、限定された安楽死、である。

そして、それは、近親の介助により、可能になる。

それ以外の人では、殺人になる危険がある。


これに対して、断食死は、自己の心身を、穏やかな禁欲状態から、徐々に厳しい栄養遮断のプロセスを踏む。

最終的に、枯れ木のような状態に変えて行く。


そして、最後は、あたかも、自然死であるかのように息を引き取る。


すくなくともそういう身の処し方が最重要の課題になっているのだと私は思う。つまり断食死の理想的な形態は「自然死であるかのごとくに自死する」ところにあるのではないだろうか。そしてこの一点において、断食死はけっしてたんなる安楽死なのではない。

山折


つまり、それは、外部からのものではなく、あくまでも、自己の内にあって、行われるからである。


そしてもう一つ。断食死は自己の死とその時期を他者にあからさまに告げる残酷さから免れている。なぜならそれは自然死であるかのごとく自死することを最終の目標にすえているからである。その場合死は、此の世から「浄土」へと観想的に移行する自然過程であるだろう。私はいつも、そのようにして往生した典型例として十二世紀の西行のことを思いおこす。

山折


西行については、以前に書いた通りである。


ただ、現代は、中世とは、違う。

時代性と、時代精神が、変わっている。


中世の人たちは、仏教、特に浄土教に影響されている。

浄土に、往生するという、観念がある。


現代人には、それが希薄、あるいは、全く無いのである。

その、観念が無い場合は、どうするのか・・・


どうすることも、無い。


往生とは、死後の世界を描いて、観念した。

現在は、死後の世界を描いて観念する必要はない。


もし、自然死を望み、安楽死を得るということならば、何かの観念を持てという強制は、迷惑である。


勿論、人それぞれだから、信仰を持つ人の、死ぬための観念を否定はしない。


天国へ行く人も、極楽へ行く人も、好きなようにすると、よい。


あるいは、私のように、霊界の存在を確信して、霊界に生まれるという、観念を持つことも、よい。

誰も、そこには、入り込めないということである。


更に、何の観念を持たずとも、いい。

死ねば、存在しない。

空、無の世界だとしても、いい。


ある科学者は、宇宙には、死者の別次元があると、考える人もいる。

それも、いい。


このエッセイでは、死ぬ義務、を書くので、それらの観念には、何も言い分は、無い。


ただ、山折氏は、そこに拘る。

しかしそれにしても、その西行の最後の瞬間に、はたして極楽のイメージがあらわれたのか、それとも地獄の相が浮上していたのか、それはむろん誰にもわからない。西行とても格別の成算があったわけではないはずだ。源信がそのギリギリの設問の前で立ち止まったように、われわれもまたこそで立ち止まるほかはないのである。

と、なる。


ここで、重要なことは、断食死が、単なる、安楽死ではないということである。

後々、安楽死と尊厳死について、非常に長い、論証を試みるが、日本の中世における、断食死は、非常に、死に方として、優れているのである。


人間は、生まれから、生きるために、演じている。

そして、その最後も、堂々に演じるべきだと、私は言う。


その方法が、断食死である。

極めて、自然死に近い、死に方である。


現在は、病院で死ぬことが多い。

そして、そこには、医療というものが介在し、医療行為における、死の準備あるいは、死亡の判断が下される。


と、ところが・・・

植物人間になっても、生かすという、狂いが生ずる。

何故か・・・


法律が整っていないのである。


すでに死んでいる、人間が生きていると、仮定される、悲劇である。


長く生きれば、いいのではない。

そして、生きることが、尊いならば、死ぬことも、同じく、尊いということを、声を大にして言う。


人間には、死ぬ義務、というものがある。

このエッセイも、終わりが無いものになる。