ここで、もう少し、山折氏の、論説を使い、日本人の基本的な、死生観というものを、見る。
矢張り、仏教が中心になり、それが展開していくが・・・
古代日本の、死生観を後々で、書くことにする。
仏教という宗教は、別エッセイ、神仏は妄想である、で散々に取り上げて、論じているので、そちらを参照のこと。
これからは、日本における仏教というものから、日本人の死生観が作られたという、話である。
勿論、その長さから言っても、伝統と呼ぶことが出来るが、私個人は、仏教による、死生観を伝統とは、言わない。
矢張り、あれは、妄想、幻想の類である。
少し、横道に逸れるが、人間は、大脳化により、言葉というものを、発明して、幻想と、妄想に浸るようになる。
つまり、言葉は、イメージであり、現実ではないことをも、創造、あるいは、想像することが出来るようになったからだ。
それが、私の根拠である。
つまり、人間と、その人生は、幻想、妄想の内に在るということだ。
今、こうしてモノを書いている、私という存在は、幻想であり、妄想であると、言ってもいいのである。
そして、それを知ると、凍えるべき、孤独の相が、現れてくる。
その孤独に、絶えられないが故に、人間は、暇を潰して、生きている。
つまり、生き方は、ただ、演じているだけである。
人間の存在は、平等であるが、実は、その平等とは、いても、いなくても、いい存在という、前提が私には、ある。
存在の否定をすると、話が進まないから、矢張り、進めるために、演じることにする。
私にとって、人生は、取るに足りない、花びらよりも、軽いものである。
だから、命の尊さなどと聞くと、笑う。
何故か、人たちは、命を寿命と勘違いしているからである。
つまり、長生きを良きここと、信じている。
信じる者は、騙される。
いのち、と、寿命は、全く違うものである。
いのち、とは、流れていて、たとえば、私のいのち、は父、その父、その前の父と、流れていくものである。
寿命とは、この人生の長さである。
この人生に、それほど、重大な意味は無い。
生きるに意味はない、である。
別エッセイ、生きるに意味などない、を参照のこと。
悠久に流れるものが、いのち、である。
命の尊さとは、嘘である。
誰も、命など、尊いとは、思わない。
ただ、信用しているだけである。
人は、死ぬ者である。
それが、解れば、上記の意味も解る。
解らないのは、死ぬという、実感が無い。
また、想像すら出来ない、馬鹿者なのである。
だから、何も知らずに、人は、死ぬ。
それが、あはれ、である。
日本人の心象風景である、もののあはれ、とは、それが根拠にある。
例えば、私は生き続けると信用して、明日、それ以降の予定を立てる。しかし、私は、本日ただ今、死ぬかもしれないのである。
このまま、書き続けていて、心臓が止まり、死ぬこともある。
だから、ただ今が、いのち、と確信する馬鹿者もいる。
それを、宣伝文句に、宗教家などが、当たり前のことを言い、尊敬されるという、愚劣。
この文も、皆々、幻想、妄想のうちにあると、私は、確信している。
ただ、死ぬための、暇を潰して、いるのである。
暇潰しのために、こうして、雑文、読みにくい、文を書く。
私は、人生というものを、馬鹿にしているのである。
つまり、私の個人的、生の感触を、馬鹿にしている。
花びらのように、軽いと・・・
さて、本題に入る。
現代に続く、死生観の一端は、平安期からのものである。
山折氏の、論説を簡略化してた書く。
それには、二つの流れがあった。一つは、人間はいかに、生きるのかということを重点にしたもの。もう一つは、人間は、いかに死ぬべきかということを、考える行き方。
いかに生きるかを多面的に考えたのが、空海の真言密教。
空海は、死ぬことを、一切考えなかった。更に、その死後も、生き続けると言った。
真言密教では、空海は、死んだのではなく、入定しているという。つまり、名僧に入っているということだ。
それは、徹底的に生きるということに、意味を見出すという。
それが、即身成仏である。
それと共に、現世利益の、加持祈祷が出てくる。
それに対して、浄土宗の思想は、人間は、いかに死ぬべきかと、考える。
そして、死というものを、急進的に考えたのが、「往生要集」の源信である。
その、往生要集の最後に、臨終の問題が出てくる。
以前に、書いた通りである。
日本人は、古代から、山に対して、特別な感情を抱いた。
それは、死後の人間の霊、魂が、山に登るという、考え方である。
その先祖は、やがて、そこで、神になる。
そして、仏教により、神よりも、仏という言い方になる。
ただ、それだけの話である。