死ぬ義務15

ここで、もう少し、山折氏の、論説を使い、日本人の基本的な、死生観というものを、見る。


矢張り、仏教が中心になり、それが展開していくが・・・

古代日本の、死生観を後々で、書くことにする。


仏教という宗教は、別エッセイ、神仏は妄想である、で散々に取り上げて、論じているので、そちらを参照のこと。


これからは、日本における仏教というものから、日本人の死生観が作られたという、話である。


勿論、その長さから言っても、伝統と呼ぶことが出来るが、私個人は、仏教による、死生観を伝統とは、言わない。

矢張り、あれは、妄想、幻想の類である。


少し、横道に逸れるが、人間は、大脳化により、言葉というものを、発明して、幻想と、妄想に浸るようになる。

つまり、言葉は、イメージであり、現実ではないことをも、創造、あるいは、想像することが出来るようになったからだ。


それが、私の根拠である。

つまり、人間と、その人生は、幻想、妄想の内に在るということだ。


今、こうしてモノを書いている、私という存在は、幻想であり、妄想であると、言ってもいいのである。


そして、それを知ると、凍えるべき、孤独の相が、現れてくる。

その孤独に、絶えられないが故に、人間は、暇を潰して、生きている。


つまり、生き方は、ただ、演じているだけである。

人間の存在は、平等であるが、実は、その平等とは、いても、いなくても、いい存在という、前提が私には、ある。


存在の否定をすると、話が進まないから、矢張り、進めるために、演じることにする。


私にとって、人生は、取るに足りない、花びらよりも、軽いものである。

だから、命の尊さなどと聞くと、笑う。


何故か、人たちは、命を寿命と勘違いしているからである。


つまり、長生きを良きここと、信じている。

信じる者は、騙される。


いのち、と、寿命は、全く違うものである。

いのち、とは、流れていて、たとえば、私のいのち、は父、その父、その前の父と、流れていくものである。


寿命とは、この人生の長さである。

この人生に、それほど、重大な意味は無い。


生きるに意味はない、である。

別エッセイ、生きるに意味などない、を参照のこと。


悠久に流れるものが、いのち、である。

命の尊さとは、嘘である。

誰も、命など、尊いとは、思わない。

ただ、信用しているだけである。


人は、死ぬ者である。

それが、解れば、上記の意味も解る。


解らないのは、死ぬという、実感が無い。

また、想像すら出来ない、馬鹿者なのである。


だから、何も知らずに、人は、死ぬ。

それが、あはれ、である。


日本人の心象風景である、もののあはれ、とは、それが根拠にある。


例えば、私は生き続けると信用して、明日、それ以降の予定を立てる。しかし、私は、本日ただ今、死ぬかもしれないのである。

このまま、書き続けていて、心臓が止まり、死ぬこともある。


だから、ただ今が、いのち、と確信する馬鹿者もいる。

それを、宣伝文句に、宗教家などが、当たり前のことを言い、尊敬されるという、愚劣。


この文も、皆々、幻想、妄想のうちにあると、私は、確信している。

ただ、死ぬための、暇を潰して、いるのである。


暇潰しのために、こうして、雑文、読みにくい、文を書く。

私は、人生というものを、馬鹿にしているのである。


つまり、私の個人的、生の感触を、馬鹿にしている。

花びらのように、軽いと・・・


さて、本題に入る。


現代に続く、死生観の一端は、平安期からのものである。


山折氏の、論説を簡略化してた書く。

それには、二つの流れがあった。一つは、人間はいかに、生きるのかということを重点にしたもの。もう一つは、人間は、いかに死ぬべきかということを、考える行き方。


いかに生きるかを多面的に考えたのが、空海の真言密教。

空海は、死ぬことを、一切考えなかった。更に、その死後も、生き続けると言った。


真言密教では、空海は、死んだのではなく、入定しているという。つまり、名僧に入っているということだ。

それは、徹底的に生きるということに、意味を見出すという。


それが、即身成仏である。

それと共に、現世利益の、加持祈祷が出てくる。


それに対して、浄土宗の思想は、人間は、いかに死ぬべきかと、考える。

そして、死というものを、急進的に考えたのが、「往生要集」の源信である。


その、往生要集の最後に、臨終の問題が出てくる。

以前に、書いた通りである。


日本人は、古代から、山に対して、特別な感情を抱いた。

それは、死後の人間の霊、魂が、山に登るという、考え方である。


その先祖は、やがて、そこで、神になる。

そして、仏教により、神よりも、仏という言い方になる。

ただ、それだけの話である。