日々の言い分324

私には、肩書が沢山ある。

つまり、何者でもないという、意味なのだが・・・


和芸家元とか、占い師とか、慰霊師とか、その他、多くの肩書をつけている。

面白い。


人は、その人に添って、理解する。

つまり、人は、その人の、器で解釈するのである。


だから、その人のことを、知りたければ、私に対する、態度、対応を見れば、良く解る。


私は、何者でもないから、どうでも、いい。

ただ、死ぬ者であることだけは、確実である。


そして、その死ぬことを、恐れない。

本日、ただ今、死ぬことを、求めて生きている。


死期を悟れば、自死する。

勿論、それは、自殺ではない。

自然死である。


日本の中世では、そのように死ぬ人たちが多くいた。

断食という方法である。

死ぬための、断食であるが、時間をかけるものである。


死ぬために、一年、二年をかける。

そうして、自然死に限りなく近くして、死ぬ。


自殺は、お勧めしない。

それは、黙っていても、死ぬからである。


私が、それを考えたのは、四十の頃である。

四十にして惑わず、とは、孔子の言葉であるが・・・

中国の思想家たちは、私には、論外である。


昔の人たちは、中国思想を、特別にありがたいと思っていた節があるが、あれは、単なる、妄想である。


何一つ、根拠のあるものは、ない。


孔子などは、この世のものにしか、興味なく、ただの、逆上せた者である。


何せ、鬼神を語らず、というから、終わっている。

つまり、目に見えない世界を見なかったのである。


見える物が、見えないものによって、成り立つことを、知らないのである。

そんな者の言葉を、ありがたく思うことが、馬鹿馬鹿しい。


更に、この世の支配者は、いかにあるべきかと、説いた。

王は、いかに、あるべきかである。


儒教といわれる、妄想を組み立てた。


中国、そして、その影響を受けた民族は、皆々、へんてこりん、である。

朝鮮などは、その被害を特に受けた。


老荘思想というものが、ある。

一度は、感心して、読んでいたが・・・


何のことはない、解るような、解らぬような言葉の数々である。

勿論、頭の悪い私が、理解出来ないからだろうと、思うが。


頭の悪い私が理解できないものは、理解出来ないでいい。

生まれつきのものだから、どうしようもない。


ただし、老荘思想は、死ぬまでの暇潰しには、とても良いことは、確かだ。

何せ、どのように解釈しても、いいのである。


さて、もう一つは、私は、毎日物を書いている。

エッセイの類で、論文などは、頭が悪いから、書けない。


そこで、ある時期から、駄文を書くように、読みにくい文を目指して、書くことにした。


昔の私の文は、名文を目指したが、止めた。

兎に角、悪文、駄文、雑文というものを、確認したくて、徹底して、それを書くことにした。


名文などは、山のように存在する。

しかし、駄文の類は、実に少ない。


源氏物語を書写しているうちに、誠に、滅茶苦茶な文だと、思った。何せ、主語がないから、とんでもない、文である。


それで、意を強くした。

千年も続いた、物語であるから、その文の有様は、呆れる程だ。

大したものだと、思う。


私も、それで、納得して、今も、書き続けている。

そして、死ねば、それらは、消滅する。

それが、いいのである。


死んで、残るものなど、たかが、知れている。

そんなものを、残して、死に恥をかきたくない。


生き恥ならば、もう、その域を超えている。

恥のかき通しである。

開き直るつもりは、ない。

ただ、本当のことを、書いている。


それで、何となく、そして、精一杯に生きている。

更に、もう、誰も私に、文句を言わない。

それが、また、拍車をかける。


こんなエッセイに、誰も批判もないのである。

批判する方が、馬鹿である。


と、私は、私を捨てて、生きている。

というより、本当の私など、存在するはがない。