神仏は妄想である545

近世における仏教の国民化が、庶民による墓の一般的受容と不可分の関係にあったという事実は重要である。それは今日の日本仏教の命運を占ううえでもあいかわらず最重要の指標であるにちがいない。とするならば広義な墓システムの浸透こそは、日本仏教の変容を示すシンボルであり、これからの「葬式仏教」の行方を占う物的基盤であるといわなければならない。

山折


さて、少しはがり、日本の仏教における、転変を見て来た。

そして、山折氏の、論説を利用して、アカデミズムの世界から見る、仏教も、見た。


簡単に言えば、十世紀を境として、主として、浄土教の民間への浸透と共に、死者の霊魂は、阿弥陀如来の浄土、その他の仏の世界に赴くと、信じられたということだ。


そして、墓である。

大量の寺が創設されて、その寺に付属する、墓地が山地と共に、霊魂の赴く霊地として、認識されるようになった、ということ。


勿論、大嘘である。


まともな霊魂は、墓などに、捉われないのである。

だが、商売も絡んで、墓、墓地の建設が、今も行われている。


仏教学、それは、アカデミズムの世界で、語られるようになり、更に、それぞれの宗派が、それなりに、商売になるようにと、伽藍仏教を、再度、作り上げて来たのである。


ただ、それだけの話。


問題は、ここからである。


そこから、死者を「ホトケ」と呼ぶ風習が成立した。なぜなら死者の霊魂は浄土としての山地や墓地に赴くものと観念されるようになったからである。

山折


これで、ある。

ホトケとは、インドでは、仏陀を言うが、日本では、死者を、ホトケと呼ぶようになった。


死者をホトケの地位につけることで、救済しようとしたのである。そのことをとおして、あとに残された者は人生の慰めをえたのだといってよい。近世における葬式仏教の根本に、そのような救済と慰めの機能が横たわっていたことにわれわれは注意しなければならない。

山折


それは、それで、理解するが・・・

私は違う、考え方をする。


つまり、仏教という、インドで成立した仏教が、その亜流の大乗仏教というもの、中国に伝わり、更に、朝鮮半島を通して、日本に到着した。

そして、完全に、日本化されて、今に至る。


実は、鎌倉仏教という、世界を哲学の世界として、認めるが、その仏という、妄想は、認められないのである。


救われるという、蒙昧は、計り知れない。


日本の仏教は、大乗仏教でもなく、日本化された、宗教として、過ごしてきた。

鎌倉仏教の祖師たちの、教えも、今は、無いのである。


何故なら、彼らの、心意気を受け継いでいる、宗派は無い。


そして、それは、それで、よい。


それでは、どのように、日本化されたのか、である。


山折氏の、論説から、簡単に書く。

インドの仏教は、「無我」の思想を説いた。

自我の存在を真実ならざるもの、として、否定したのである。


ところが・・・

日本に来ると、それが、大きく軌道修正をされることになる。


なぜなら日本人の現世志向的な資質が「無我」というような極度に形而上学的な観念を受け付けなかったからである。

山折


まあ、形而上学的というが・・・

単なる、言葉遊びのことである。


思想、哲学、そして、神学、更に、宗教学等々は、言葉遊びの何物でもない。


死ぬまでの、暇つぶしである。


さて、それでは、「無我」の観念の代わりに、登場したのが、清らかな、精神

状態を追及する、「無心」とか、「無私」の考え方である。


つまり、それは、縄文期から続いていた、心象風景である。

私の言葉にすると、もののあはれ、である。


観念のレベルでは無我を説きつつも、日常的な意識や感覚のレベルでは心にわだかまりのない「無心」の状態が探究され、それが信仰心や宗教心の基盤をつくるものと考えられるようになったのである。

山折


これは、見事な分析である。


日本の神道では、清き、直き、明き心、という、心地を求めた。境地ともいう。

それで、ある。

神道の上に、仏教というものが、乗った。

背乗りである。


それだけの、ことだ。


それが、鎌倉時代に、頂点に達したのである。

そこに、仏教が、付け込んだ。


哀れであるが・・・


仏陀の教えなど、何処にもないものである。

それは、日本人の、元からあった、心根である、境地を求めるものだった。


だから、仏教が衰退して、壊滅し、建物だけの仏教が残り、再び、日本人の心性に、立ち戻れば、仏という、化け物の、妄想に浸ることは無いのである。


あるいは、彼らが、仏と呼んだものは、日本の、みこと、命と、元に戻ることである。

それは、妄想ではない。


へんてこな、戒名なるものを付けずに、亡くなった人に、みこと、命として、祀れば、事足りる。


つまり、私が死ぬと、木村天山命、ということだ。

日本人は、死ぬと、カム上がりするという、考え方である。


唯一、絶対の神の存在などは、どう考えても、無いのである。

日本は、祖霊がカムである。

神、とも書く。


ちなみに、カミとは、天皇の、上であり、国民は、下、シモの存在である。

カミという言葉は、天皇にのみ、言えるという、伝統である。