神仏は妄想である546

仏教の思想の一つ、無我の思想。

それが、日本では、無私の思想になった。


以前に書いたものを、参照して欲しい。

さて、漢訳仏典の多くを残した、三蔵法師玄奘は、天竺に、ユガ論を求めて、旅に出た。


そして、最高学府で最高の地位に上がる。

だが、彼は、ヨガの理論を学んだが、行はしなかった。

晩年、そのことを、反省している。


つまり、理屈だけを、知ったということである。


世の中には、理屈を好む者がいる。

大半が、そうだろうが・・・


ちなみに、ヨガとは、健康ヨガなどというものではない。

化け物である、仏に成るための、修行を言う。


そして、それは、仏陀の時代以前から、なされていた。


バラモンから、ヒンドゥーに至る道である。


そして、現在のインドは、ヒンドゥーの教えが行き渡る。

仏教は、壊滅している。


日本の新興宗教である、法華経を奉じる団体が、恥ずかしいことに、インドに仏教を伝えると、はりきっているが・・・

実に、愚かである。


ただ、迷いに至る道である。


インドでの、心の捉え方と、日本での、心の捉え方が違うということを、前提にして、考えるべきである。


無我という思想は、無私の思想とは、別物である。


さて、山折氏の、論説を使うのは、日本仏教の再生を願うものだからである。

私は、全く、それには、反対である。


消滅すめものは、消滅すると、いい。


だが、面白いので、続ける。


かれらはいずれも「念仏」や「坐禅」をとおして自己の心を清浄にして、一種の「無私」の精神状態ーーーすなわち「仏」の状態に到達することを目標にしが、それは当時に人間として成熟することを意味したのである。明恵のいう「菩提心」も親鸞のいう「自然法爾」の心身状態も、そして道元の主張する「心身脱落」も、その点で帰するところは一つであったと思う。仏教いう「成仏」の思想が人間的な成熟の観念と結びついたのだといってもよい。

山折


私は言う。

仏教の思想は、完全に、日本化されたのである。


化け物の思想ではない。

人間としての、境地を目指した、仏教と変容したのである。


だから、それが芸術の世界にも、様々な、分野の世界にも、影響を与えた。

仏教から、出たと勘違いしているが・・・


それは、日本人の心性だったのである。

だから、まともなものになった。


人間は、よりよい人間だけになれるモノである。

仏という、化け物には、成る必要がない。


更に、悟るという、迷いに陥ることもない。


人間として、得ることの出来る、境地を目指したのが、日本人の心性である。


だから、日本の心の、在処という時は、もののあはれ、の考え方が出てくるのである。


別エッセイ、もののあわれについて、を参照のこと。


さて、おおよそ、日本仏教が変容した、15世紀に、世阿弥が能楽を大成した。その著書である、風姿花伝、を読めば、仏教の変容が理解できる。


その中で、世阿弥は、「初心」を説く。

初心忘るべからず、である。


初心とはつまり未熟な心、劣った心なのであるが、その未熟な心=初心に不断に内省の目をむけることによって、芸道に磨きがかけられ、人間としての成熟が約束される。

山折


現在の、能楽を言うのではない。

現在の、能は、世阿弥の能ではないと、私は言う。

世阿弥の能は、終わったものである。


ただし、その心得は、残されてある。

それを、内省するのが、本筋。


日本人は、この内省の能力に長けているのである。

内省を分かりやすく、紹介すれば、その手前に、反省という言葉があり、そして、更に、外省という、考え方があると、私は言う。


外省は、すべてのことを、人のせいにする考え方。あるいは、自分以外のモノに責任を押し付ける考え方である。


反省は、言葉通りに、やったことを、省みること。


それでは、内省とは、何か・・・

偶然と思える事態に対して、あたかも、必然であるかのように、考えることである。


それは、この事態は、私にとって、どんな意味があるのかと、考える、考え方である。


日本人は、そのような、民族である。

そして、それが、生きる力、私は人生力、という。


それが、生きるということである。


宗教による、生き方は、全く、不完全であり、ただ、迷いに至らしめる道になる。

つまり、信仰とは、迷いなのである。


神仏を信じて、騙され、そして、騙された人生を送る。

実に、あはれ、としか言いようがない。


まだ、続ける。